思春期を描いたフェミニズム・ホラー2選『ぼくのエリ 200歳の少女』『RAW 少女のめざめ』

最近思春期を描いたホラー映画を『ぼくのエリ 200歳の少女』『RAW 少女のめざめ』と立て続けに観た。

ホラー映画は基本的に苦手で、観始めても途中でギブアップしてしまうことがほとんどなのだが、この2本についてはなぜか怖いと思わず、最後までじっくりと観ることができた。

その理由を考えてみると、一つはこれらが芸術的価値に重点を置いた作品であり、ただ観客を怖がらせるためだけの演出が少なかったということがある。必要以上に大きな音や、急なシーン展開がなく、観ていて目を覆いたくなったり叫んだりしてしまうようなことが全くなかったのはホラー苦手人間としてありがたい要素だった。

これに加え、大きな要因として考えられるのが、ホラー描写に必然性があるという点だ。ホラー映画によくあるのが、狂気的な男が圧倒的パワーを振りかざし、女性は恐れ戦き逃げ惑う…というマッチョイムズ全開の展開だが、今回取りあげる2作は、狂気的に描写される存在が女性、しかも思春期の女の子であるという点に特徴がある。ただ単に自らの力を誇示するために狂気的にふるまうのではなく、社会からの抑圧から逃れるためにパワーを発揮する彼女たち。その行動は、平たく言えばホラー、グロテスクではあるのだが、その背景に家父長制社会からの解放という大きな目的が見えてくると、自ずとその言動にグロ以上の何かを見出そうという姿勢で鑑賞するようになる。

ただでさえ常日頃より社会から抑圧される女性だが、そんな女性たちの一生のうち思春期という時期を題材にすることで、親からの自立、性のめざめ等も含めた様々な文脈を踏まえた解放、超人的能力の発揮が必然性を帯びてくるのだと思う。

前置きが長くなったが、今回はフェミニズム的観点から、文字通り血みどろの思春期を描いたこの二つの映画について考察したいと思う。

 

ぼくのエリ 200歳の少女』(2008)

永遠に年をとらないバンパイアの少女と、孤独な少年の交流を描いたヨン・アイビデ・リンドクビストのベストセラー小説「モールス」の映画化。内気で友達のいない12歳のオスカーは、隣の家に引っ越してきた不気味な少女エリに恋をする。しかしエリの正体は、人間の血を吸いながら町から町へと移り住み、200年間も生きながらえてきたバンパイアだった。2008年のトライベッカ国際映画祭で最優秀作品賞を受賞。

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北欧映画、ホラー映画ファンの中で名作として名高いらしい本作。

本作ではいじめられっ子オスカーを吸血鬼であるエリが守るという点で、魅力的だが男を破滅させるファムファタル的な女性キャラクターからは一線を画した設定となっている。

2004年に発表された同名の小説の映画化である本作では、実はジェンダー的にも複雑な設定なのだが、日本上陸の際にとんでもない事故が発生したようで…。

問題のシーンは、着替え中のエリの姿をオスカーがこっそり覗いてみると、ちょうど股間が見えてしまう…という場面。

裸を見るために覗いてやろうというよりは、純粋な好奇心からの行為に見え、性差とはなにかもわかっていないような、第二次性徴前らしいな~と半ばほっこりしながら観ていたのだが、鑑賞後レビューを検索していると、衝撃の事実が明らかになった。

日本版は股間にぼかしが入っており、完全に女の子のそれを想像させるつくりになっているのだが、なんと本国版はぼかしなしで、実は男性器が去勢された跡が見えるシーンだというのだ。

物語のイメージを決定的に左右する重要なシーンなだけに、これはどう考えても悪手としか言えない。

序盤よりエリは何度も自分は女の子ではないことを強調するが、これは自分が吸血鬼だということをほのめかしているのだとばかり思っていた。

実は本当に女の子ではなく男の子として生まれたなんて、このぼかしのせいで全く気づきもしなかった…。

 

さて、ここでエリが男性器を持って生まれたことが明らかになったわけだが、では男性器を切除したという事実を持って、エリが女の子であると考えて良いのだろうか?

映画を観る限りでは、エリは女の子の格好をしてはいるものの、それを好み選んでいるような描写は特段見当たらない。去勢されてはいるものの、男の子の格好をすることも可能である。

ではなぜエリは女の子の格好をしているのだろうか?

この点につき、あるYouTuberが興味深い考察をしていた。

youtu.be

彼女は、エリが女の子の格好をすることにつき、以下2つの理由が考えられると解説する。

理由A. 男の子時代にトラウマとなる経験(去勢)をしたために、違う性として生きることにした。

理由B. 女の子の格好をした方がか弱く見え、血を吸うための標的を騙しやすいから。

一見もっともらしい理由だが、どちらもよくよく考えると筋が通らないと話す彼女。

Aについては、ジェンダーアイデンティティーというものは、トラウマがあったから一方の性に移る、といったようなものではない。どう育てられたか、どのような経験をしたかとはまた別の次元で、より根源的な部分で決まるものであるので、この理由は説得力に欠ける。

また、Bについても、この言説はトランスジェンダー女性に対するヘイトを助長する恐れがあり、支持できない。トランスジェンダー女性に対し、「生物学的男性が、周囲を騙したり、女性に近づくために女性の格好をしているのだ」と恐怖心を抱く女性が一定数いるが、Bのような理由が正当化されてしまうと、トランスジェンダー女性への悪影響になりかねない。

ということで、エリが女の子の格好をする理由についてははっきりとは分からないとして議論を締めくくっている。

この点については映画内でも明言されていないわけだが、不用意に説明し批判を生むよりかは、描写を曖昧にしてぼかすことにしたのは賢い選択であるように思う。

エリ自身、200年以上生きているものの、去勢された12歳の頃から成長が止まっていると考えると、ジェンダーアイデンティティーが確立していないのも不思議ではない。

エリの描写をじっくり見てみると、エリは自身を女の子でも、男の子でも、トランスジェンダーとも認識していないように見受けられる。もしかすると、ジェンダーアイデンティティーが確立していないというよりかは、性別という概念を超越した存在なのかもしれない。

そして、このようなエリ本来の姿をそのまま受け入れるオスカーの姿は、性別・属性など関係なく、ただ相手を大切に想うという幼少期の純粋さを私たちに思い出させてくれる。

 

英語タイトルは『Let The Right One in』で、正しいものを入れよという意味だ。これは、欧米圏ではヴァンパイアは家人に招かれない限り家の中に入れないという文化に沿ったものだ。

本作においてタイトルを文字通り解釈すれば、オスカーが吸血鬼であるエリを受け入れることにした、という意味に読めるのだが、上記のようなエリの事情を勘案すると、実はその逆で、トラウマを経験したエリがついに心を開き、オスカーを受け入れることにした、という意味合いを暗示しているのかもしれない。

 

さて、ここからは脱線になるのだが、感想を検索しているうちに「『ぼくのエリ』についての10の事実」という面白い記事を見つけたので、最初の5項目について簡単に紹介してみたいと思う。

10 Sharp Facts About Let The Right One In | Mental Floss

①監督のトーマス・アルフレッドソンは本を映画化することに関心がなかった。

「素晴らしい本は映画化すべきではないと考えます。なぜなら、素晴らしい本の奥深さを表現するには、90分の映画では足りないので。しかし、この映画はある種の例外でした。」

②アルフレッドソン監督はほかのホラー映画を観ることに関心がなかった。

「多くの監督は、インスピレーションを受けるためにほかの監督の映画を観ますが、私にとってそれは完全に無意味です。私はむしろ芸術や音楽から影響を受けます。勘違いしてほしくないのですが、私もホラー映画がテレビでやっていたら楽しく観ますが、私はホラー映画というジャンルについて知識がなく、自分から観に行くようなことはしません。」

③オスカーとエリ役の俳優を探すのに約1年かかった。

「私はただ一人の男の子と一人の女の子を探していたのではありません。私は役に完璧に合う俳優を探す必要がありました。また、彼らの家族仲が良好で、彼ら自身が落ち着いた人間であることもとても重要でした。」

④オスカーとエリ役の俳優は台本を読むことを許されていなかった

監督自身の「芸術的な理由」と、子役という概念がスウェーデンではアメリカとは異なるという理由から、アルフレッドソン監督は二人の子役と映画を撮るにあたり、ある撮影方法を採用した(これは、ハリウッド映画で子役に見慣れた観客からすると、変わった方法にみえるかもしれない)。

オーディションから最初の撮影に至るまで、二人の子役は台本を読むことが許可されていなかった。彼らの両親は、子どもたちの出演に同意するため既に読んでいたが、子どもたちは、監督が望む画を生み出すため、監督自身から台詞やシナリオを伝えられた。

⑤エリの声には他の俳優の声が使われた。

エリを、何百年も生きてきた中性的なキャラクターにするために、エリ役の俳優より年上の俳優が吹き替えをすることになった。

 

『RAW 少女のめざめ』(2016)

2016年・第69回カンヌ国際映画祭で批評家連盟賞を受賞した、フランス人女性監督ジュリア・デュクルノーの長編デビュー作品。厳格なベジタリアンの獣医一家に育った16歳のジュスティーヌは、両親と姉も通った獣医学校に進学する。見知らぬ土地での寮生活に不安な日々を送る中、ジュスティーヌは上級生からの新入生通過儀礼として、生肉を食べることを強要される。学校になじみたいという思いから家族のルールを破り、人生で初めて肉を口にしたジュスティーヌ。その行為により本性があらわになった彼女は次第に変貌を遂げていく。主人公ジュスティーヌ役をデュクルノー監督の短編「Junior」でデビューしたガランス・マリリエールが演じる。

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デュクルノー監督と言えば、第74回カンヌ国際映画祭にて、第46回の『ピアノ・レッスン』以来、女性監督の作品として2度目となる最高賞のパルム・ドールを受賞したという『チタン』の日本上映が待ちきれない今日この頃。

 かなり衝撃的な作品で、公開時はメディアの大注目を集めたという『RAW 少女のめざめ』。

主人公は、大学入学ほやほやの一見おとなしそうな女の子、ジュスティーヌ。

親元から離れ、大学の先輩たちの洗礼に揉まれながら、血への欲望、性への欲望に目覚め、その満たされない渇きを通じて自分を知っていく過程がじっくりと描き出される。

どの大学も特有の文化があるが、中でも大学入学とともにセックスへの扉が一気に開かれるという側面は大きいように思う。

その空気感に入学当初は困惑していたものの、次第に欲望に目覚めていくジュスティーヌ。

一度欲望に自覚的になると、その渇きを満たしたいという衝動はとどまるところを知らない。

異性から求められることで欲に自覚的になるのではなく、自ら欲望に目覚め、主体的に発散していく姿は、可憐なルックスとのギャップもありとても生々しい。

自分の欲求を一切恥じることなく、どこまでもまっすぐに向き合うその潔さに、その欲求が人肉食であることを忘れてしまうほどの、一種の解放感を覚えてしまうのは私だけだろうか。

私などは大学時代、狭いコミュニティーの中で圧迫感を覚えながらも自分のキャラクターを確立することに必死だったので、ジュスティーヌが周囲の目など一切気にせず欲求を完全にオープンにする姿にただただ憧れの念を抱いた。

 

 

ということで、以上、『ぼくのエリ 200歳の少女』『RAW 少女のめざめ』についてフェミニズム的視点から語ってみた。

どちらもホラーというジャンルで、内容的には非常に恐ろしく観るのに覚悟がいる内容なのだが、観た後は恐怖以上に解放感に満ち溢れる、とてもエンパワリングな作品だ。

ホラーが苦手な人でもグロが大丈夫だったらどちらも楽しめると思うので、ぜひおすすめしたい。

 

★★★★☆

(余談だが、どちらも日本語版タイトルに副題がついてるのは何なんだ。特にぼくのエリでは完全にネタバレだし、何なら厳密には少女じゃないし、という…。ポスターもそうだけど題名も日本に来るとダサくなってしまう現象に誰か名前をつけてほしい。)