『恐怖のセンセイ』「男らしさ」のばかばかしさをシュールに描き出す

 恐怖のセンセイ』(原題:The Art of Self-Defense)は2019年に公開されたアメリカ合衆国サスペンスコメディである。監督はライリー・スターンズ、主演はジェシー・アイゼンバーグが務めた。

 wikipediaより(恐怖のセンセイ - Wikipedia

 

日本では劇場公開されなかったマイナー作品。Netflixにて鑑賞。

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うだつの上がらない会計士の主人公が、夜道で暴漢に襲われたことをきっかけに、空手道場に入門することを決意する。しかし、その道場の師範は、自らを「センセイ」と名乗る、とんでもない裏の顔を持つ人物だった…。という展開。

 

作中、いかにもひ弱な主人公がアメリカ的男らしさにどんどんと飲み込まれていくのだが、その男らしさが「強いもの」「誇るべきもの」ではなく、ばかばかしいものとして客観的に描写されているのが本作の特徴だ。

 

センセイが主人公に教える男らしさとは、

フランス語ではなくドイツ語を話せ。なぜなら強そうだから。

ダックスフントではなくシェパードを飼え。なぜなら強そうだから。

といった、センセイ自身の感覚に基づく概念に過ぎない。

 

しかし、強いと、男らしいと人から承認されることに渇望する主人公は、センセイに乗せられるまま、空虚な男らしさを身に付け、周囲に誇示する言動に走ってしまう。

 

本作が素晴らしいのは、男性監督作品でありながら、男らしさをばかばかしいと思いつつそれを求めずにはいられない男性の情けなさを克明に描いているという点にある。

 

元来、女性らしさの空虚さを皮肉的に描いた作品は多い。

例えば、『ミーン・ガールズ』では、男性やファッションをめぐって対立する女性たちの友情の薄っぺらさを描いているが、女性にフォーカスした作品だけでなくとも、容姿にばかり気を遣う女性や、恋のためだけに生きているような女性の姿は、映画・ドラマ等の中で嫌というほど目にしてきた。

 

一方で、伝統的な男らしさーー例えば勇敢さ、豪快さ等は、常に称賛に価するものとして描写されてきた。女性が行えば非難の嵐になりかねない言動も、男性が行えば男らしく格好いいものとして受け止められてきたのだ。

そのような状況下で、本作では男性性をどこまでも嘲笑の対象として描いており、そのばかばかしさを徹底的に浮き彫りにしている。

一方で、唯一登場する女性=アナイモージェン・プーツは、感情を抑えた論理的人物として描写される。彼女は長年道場に通い、誰よりも実力があるにもかかわらず、道場という男社会では決して評価されることがない(彼女の苦しみはチェス界という男社会での奮闘を描いた『クイーンズ・ギャンビット』に通じるものがある)。この点につき、現実社会でも「ガラスの天井」に苦しめられる数多の女性が存在することを作中にも反映している。

 また、主人公やセンセイは空手の技術を力を誇示するためのものとして使っている一方、アナは日常では力を抑えており、本当に自己防衛として必要になったときのみ利用している。

空手の本来の意義から見れば、アナの力の使い方がもっとも「正しい」のは間違いないだろう。

最終的にアナを正当に評価することに一役買ったのが、作中で男根の象徴である銃であることは皮肉であるが、これは凝り固まった権利構造に風穴を開けるためには飛び道具の使用の必要もありうるという指摘なのだろうか。

 

ラストの解釈は分かれるところではあるが、全体を通じ、アメリカ的男らしさへのアンチテーゼとなっており、鑑賞後は胸がすくような思いでいっぱいになった。

有害な男らしさ(Toxic masculinity)という言葉が日本でもよく聞かれるようになったが、その業の深さを見事に描いた作品であった。

 

暴力的な作品、過剰なグロ描写のある作品は苦手だが、本作はブラックコメディ調に仕上げられていることもあり、あまり気にせず楽しめた。

美術作品としても、色使い、カット等が美しく目でも楽しめる作品。

★★★★☆