思春期を描いたフェミニズム・ホラー2選『ぼくのエリ 200歳の少女』『RAW 少女のめざめ』

最近思春期を描いたホラー映画を『ぼくのエリ 200歳の少女』『RAW 少女のめざめ』と立て続けに観た。

ホラー映画は基本的に苦手で、観始めても途中でギブアップしてしまうことがほとんどなのだが、この2本についてはなぜか怖いと思わず、最後までじっくりと観ることができた。

その理由を考えてみると、一つはこれらが芸術的価値に重点を置いた作品であり、ただ観客を怖がらせるためだけの演出が少なかったということがある。必要以上に大きな音や、急なシーン展開がなく、観ていて目を覆いたくなったり叫んだりしてしまうようなことが全くなかったのはホラー苦手人間としてありがたい要素だった。

これに加え、大きな要因として考えられるのが、ホラー描写に必然性があるという点だ。ホラー映画によくあるのが、狂気的な男が圧倒的パワーを振りかざし、女性は恐れ戦き逃げ惑う…というマッチョイムズ全開の展開だが、今回取りあげる2作は、狂気的に描写される存在が女性、しかも思春期の女の子であるという点に特徴がある。ただ単に自らの力を誇示するために狂気的にふるまうのではなく、社会からの抑圧から逃れるためにパワーを発揮する彼女たち。その行動は、平たく言えばホラー、グロテスクではあるのだが、その背景に家父長制社会からの解放という大きな目的が見えてくると、自ずとその言動にグロ以上の何かを見出そうという姿勢で鑑賞するようになる。

ただでさえ常日頃より社会から抑圧される女性だが、そんな女性たちの一生のうち思春期という時期を題材にすることで、親からの自立、性のめざめ等も含めた様々な文脈を踏まえた解放、超人的能力の発揮が必然性を帯びてくるのだと思う。

前置きが長くなったが、今回はフェミニズム的観点から、文字通り血みどろの思春期を描いたこの二つの映画について考察したいと思う。

 

ぼくのエリ 200歳の少女』(2008)

永遠に年をとらないバンパイアの少女と、孤独な少年の交流を描いたヨン・アイビデ・リンドクビストのベストセラー小説「モールス」の映画化。内気で友達のいない12歳のオスカーは、隣の家に引っ越してきた不気味な少女エリに恋をする。しかしエリの正体は、人間の血を吸いながら町から町へと移り住み、200年間も生きながらえてきたバンパイアだった。2008年のトライベッカ国際映画祭で最優秀作品賞を受賞。

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北欧映画、ホラー映画ファンの中で名作として名高いらしい本作。

本作ではいじめられっ子オスカーを吸血鬼であるエリが守るという点で、魅力的だが男を破滅させるファムファタル的な女性キャラクターからは一線を画した設定となっている。

2004年に発表された同名の小説の映画化である本作では、実はジェンダー的にも複雑な設定なのだが、日本上陸の際にとんでもない事故が発生したようで…。

問題のシーンは、着替え中のエリの姿をオスカーがこっそり覗いてみると、ちょうど股間が見えてしまう…という場面。

裸を見るために覗いてやろうというよりは、純粋な好奇心からの行為に見え、性差とはなにかもわかっていないような、第二次性徴前らしいな~と半ばほっこりしながら観ていたのだが、鑑賞後レビューを検索していると、衝撃の事実が明らかになった。

日本版は股間にぼかしが入っており、完全に女の子のそれを想像させるつくりになっているのだが、なんと本国版はぼかしなしで、実は男性器が去勢された跡が見えるシーンだというのだ。

物語のイメージを決定的に左右する重要なシーンなだけに、これはどう考えても悪手としか言えない。

序盤よりエリは何度も自分は女の子ではないことを強調するが、これは自分が吸血鬼だということをほのめかしているのだとばかり思っていた。

実は本当に女の子ではなく男の子として生まれたなんて、このぼかしのせいで全く気づきもしなかった…。

 

さて、ここでエリが男性器を持って生まれたことが明らかになったわけだが、では男性器を切除したという事実を持って、エリが女の子であると考えて良いのだろうか?

映画を観る限りでは、エリは女の子の格好をしてはいるものの、それを好み選んでいるような描写は特段見当たらない。去勢されてはいるものの、男の子の格好をすることも可能である。

ではなぜエリは女の子の格好をしているのだろうか?

この点につき、あるYouTuberが興味深い考察をしていた。

youtu.be

彼女は、エリが女の子の格好をすることにつき、以下2つの理由が考えられると解説する。

理由A. 男の子時代にトラウマとなる経験(去勢)をしたために、違う性として生きることにした。

理由B. 女の子の格好をした方がか弱く見え、血を吸うための標的を騙しやすいから。

一見もっともらしい理由だが、どちらもよくよく考えると筋が通らないと話す彼女。

Aについては、ジェンダーアイデンティティーというものは、トラウマがあったから一方の性に移る、といったようなものではない。どう育てられたか、どのような経験をしたかとはまた別の次元で、より根源的な部分で決まるものであるので、この理由は説得力に欠ける。

また、Bについても、この言説はトランスジェンダー女性に対するヘイトを助長する恐れがあり、支持できない。トランスジェンダー女性に対し、「生物学的男性が、周囲を騙したり、女性に近づくために女性の格好をしているのだ」と恐怖心を抱く女性が一定数いるが、Bのような理由が正当化されてしまうと、トランスジェンダー女性への悪影響になりかねない。

ということで、エリが女の子の格好をする理由についてははっきりとは分からないとして議論を締めくくっている。

この点については映画内でも明言されていないわけだが、不用意に説明し批判を生むよりかは、描写を曖昧にしてぼかすことにしたのは賢い選択であるように思う。

エリ自身、200年以上生きているものの、去勢された12歳の頃から成長が止まっていると考えると、ジェンダーアイデンティティーが確立していないのも不思議ではない。

エリの描写をじっくり見てみると、エリは自身を女の子でも、男の子でも、トランスジェンダーとも認識していないように見受けられる。もしかすると、ジェンダーアイデンティティーが確立していないというよりかは、性別という概念を超越した存在なのかもしれない。

そして、このようなエリ本来の姿をそのまま受け入れるオスカーの姿は、性別・属性など関係なく、ただ相手を大切に想うという幼少期の純粋さを私たちに思い出させてくれる。

 

英語タイトルは『Let The Right One in』で、正しいものを入れよという意味だ。これは、欧米圏ではヴァンパイアは家人に招かれない限り家の中に入れないという文化に沿ったものだ。

本作においてタイトルを文字通り解釈すれば、オスカーが吸血鬼であるエリを受け入れることにした、という意味に読めるのだが、上記のようなエリの事情を勘案すると、実はその逆で、トラウマを経験したエリがついに心を開き、オスカーを受け入れることにした、という意味合いを暗示しているのかもしれない。

 

さて、ここからは脱線になるのだが、感想を検索しているうちに「『ぼくのエリ』についての10の事実」という面白い記事を見つけたので、最初の5項目について簡単に紹介してみたいと思う。

10 Sharp Facts About Let The Right One In | Mental Floss

①監督のトーマス・アルフレッドソンは本を映画化することに関心がなかった。

「素晴らしい本は映画化すべきではないと考えます。なぜなら、素晴らしい本の奥深さを表現するには、90分の映画では足りないので。しかし、この映画はある種の例外でした。」

②アルフレッドソン監督はほかのホラー映画を観ることに関心がなかった。

「多くの監督は、インスピレーションを受けるためにほかの監督の映画を観ますが、私にとってそれは完全に無意味です。私はむしろ芸術や音楽から影響を受けます。勘違いしてほしくないのですが、私もホラー映画がテレビでやっていたら楽しく観ますが、私はホラー映画というジャンルについて知識がなく、自分から観に行くようなことはしません。」

③オスカーとエリ役の俳優を探すのに約1年かかった。

「私はただ一人の男の子と一人の女の子を探していたのではありません。私は役に完璧に合う俳優を探す必要がありました。また、彼らの家族仲が良好で、彼ら自身が落ち着いた人間であることもとても重要でした。」

④オスカーとエリ役の俳優は台本を読むことを許されていなかった

監督自身の「芸術的な理由」と、子役という概念がスウェーデンではアメリカとは異なるという理由から、アルフレッドソン監督は二人の子役と映画を撮るにあたり、ある撮影方法を採用した(これは、ハリウッド映画で子役に見慣れた観客からすると、変わった方法にみえるかもしれない)。

オーディションから最初の撮影に至るまで、二人の子役は台本を読むことが許可されていなかった。彼らの両親は、子どもたちの出演に同意するため既に読んでいたが、子どもたちは、監督が望む画を生み出すため、監督自身から台詞やシナリオを伝えられた。

⑤エリの声には他の俳優の声が使われた。

エリを、何百年も生きてきた中性的なキャラクターにするために、エリ役の俳優より年上の俳優が吹き替えをすることになった。

 

『RAW 少女のめざめ』(2016)

2016年・第69回カンヌ国際映画祭で批評家連盟賞を受賞した、フランス人女性監督ジュリア・デュクルノーの長編デビュー作品。厳格なベジタリアンの獣医一家に育った16歳のジュスティーヌは、両親と姉も通った獣医学校に進学する。見知らぬ土地での寮生活に不安な日々を送る中、ジュスティーヌは上級生からの新入生通過儀礼として、生肉を食べることを強要される。学校になじみたいという思いから家族のルールを破り、人生で初めて肉を口にしたジュスティーヌ。その行為により本性があらわになった彼女は次第に変貌を遂げていく。主人公ジュスティーヌ役をデュクルノー監督の短編「Junior」でデビューしたガランス・マリリエールが演じる。

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デュクルノー監督と言えば、第74回カンヌ国際映画祭にて、第46回の『ピアノ・レッスン』以来、女性監督の作品として2度目となる最高賞のパルム・ドールを受賞したという『チタン』の日本上映が待ちきれない今日この頃。

 かなり衝撃的な作品で、公開時はメディアの大注目を集めたという『RAW 少女のめざめ』。

主人公は、大学入学ほやほやの一見おとなしそうな女の子、ジュスティーヌ。

親元から離れ、大学の先輩たちの洗礼に揉まれながら、血への欲望、性への欲望に目覚め、その満たされない渇きを通じて自分を知っていく過程がじっくりと描き出される。

どの大学も特有の文化があるが、中でも大学入学とともにセックスへの扉が一気に開かれるという側面は大きいように思う。

その空気感に入学当初は困惑していたものの、次第に欲望に目覚めていくジュスティーヌ。

一度欲望に自覚的になると、その渇きを満たしたいという衝動はとどまるところを知らない。

異性から求められることで欲に自覚的になるのではなく、自ら欲望に目覚め、主体的に発散していく姿は、可憐なルックスとのギャップもありとても生々しい。

自分の欲求を一切恥じることなく、どこまでもまっすぐに向き合うその潔さに、その欲求が人肉食であることを忘れてしまうほどの、一種の解放感を覚えてしまうのは私だけだろうか。

私などは大学時代、狭いコミュニティーの中で圧迫感を覚えながらも自分のキャラクターを確立することに必死だったので、ジュスティーヌが周囲の目など一切気にせず欲求を完全にオープンにする姿にただただ憧れの念を抱いた。

 

 

ということで、以上、『ぼくのエリ 200歳の少女』『RAW 少女のめざめ』についてフェミニズム的視点から語ってみた。

どちらもホラーというジャンルで、内容的には非常に恐ろしく観るのに覚悟がいる内容なのだが、観た後は恐怖以上に解放感に満ち溢れる、とてもエンパワリングな作品だ。

ホラーが苦手な人でもグロが大丈夫だったらどちらも楽しめると思うので、ぜひおすすめしたい。

 

★★★★☆

(余談だが、どちらも日本語版タイトルに副題がついてるのは何なんだ。特にぼくのエリでは完全にネタバレだし、何なら厳密には少女じゃないし、という…。ポスターもそうだけど題名も日本に来るとダサくなってしまう現象に誰か名前をつけてほしい。)

脱北者の闘いは続く『ファイター、北からの挑戦者』

韓国・ソウルで新たな人生をスタートさせた北朝鮮からの脱北者の女性がボクシングと出会い、生きる希望と勇気を取り戻す姿を描いたドラマ。ソウルの小さなアパートにたどり着いた脱北者のリ・ジナ。残してきた父を呼び寄せるため多くのお金を稼ぎたい彼女は、食堂と清掃の仕事を掛け持ちする中で、ボクシングジムの館長とトレーナーのテスと出会う。悲惨な過去と怒りを抱えるジナは彼らに対して壁を作るが、館長とテスはそんな彼女の中に静かに燃えるファイティングスピリットを感じ取る。ボクシンググローブを手渡されたジナは、次第にボクシングの世界にのめり込んでいく。

ファイター、北からの挑戦者 : 作品情報 - 映画.com

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Fan's Voiceさんのオンライン試写会で鑑賞。

監督のユン・ジェホさんは自身が韓国から単身フランスに出てきた経験から、異国の地でどう生きていくかということに問題意識があるようで、2016年には脱北者の暮らしを追ったドキュメンタリー映画を作成している。

本作は監督にとって初めてのフィクション映画だという。

 

北朝鮮という実態がベールに包まれている国家で何が起きているのか、そこから逃げてきた人たちにはどのような暮らしが待ち受けているのか…。

北朝鮮に関する映画を観るのは初めてで、普段はなかなか知ることのできない世界を垣間見れたような気がした。

 

作品自体はボクシング映画ではあるものの、ドラマチックな展開は排除され、ジナの心の動きにフォーカスした非常に静かなつくりとなっている。

 

以下簡単に感想をまとめる(ネタバレあり)。

主人公ジナに賃貸を紹介してくれた男は、最初はいかにも親切そうにふるまうが、次第に馴れ馴れしい態度を取り、ジナの弱みに付け込むような言動を取り始める。

こういう逆上してくるタイプの男、いるわぁ…だからむやみに男と絡みたくないんだよな…と苦い気持ちで観ていたのだが、

理不尽な要求をされても助けを求めるすべがなく、従うしかない立場に追い込まれてしまうジナの姿に、社会的弱者が搾取される構図を見出し、重苦しさを覚えた。

 

ジムでは意地悪な女性3人組と対立することになるのだが、正直これはあまりにも安直。このプロットは見飽きたのでもうおなかいっぱいです。という感想。

格闘シーンも特にこれといって面白味はなく…。キャットファイトにはもううんざり。

また、シスターフッドをひそかに期待していたので、優しく理解ある男性2人に導かれ段々と周囲に心を開く…という展開に、いいんだよ、いいんだけどそっちか。。。となった。

 

全体的に『百円の恋』ととても似ている本作。

『百円の恋』ではボクシングを通じ成長した後もなぜかクソ男についていこうとするのが本当に理解できなかったのだが、その点本作は、男性を追うことが軸ではなかったのが良かった。

いつか、周囲の男性と番うことなく、むしろ置いてけぼりにするくらいパワフルな女性の格闘映画が観てみたい。

 

何はともあれ、とにかく主演のイム・ソンミの圧倒的演技力だけでも観る価値がある本作。

監督の次回以降の作品にも期待が持てる。

 

★★★☆☆

過去と決別し生まれ変わるために 窪美澄 『朔が満ちる』

サバイブ、したのか? 俺ら。
家族という戦場から――
家庭内暴力を振るい続ける父親を殺そうとした過去を封印し、孤独に生きる文也。
ある日、出会った女性・梓からも、自分と同じ匂いを感じた――
家族を「暴力」で棄損された二人の、これは「決別」と「再生」の物語。

朔が満ちるの通販/窪 美澄 - 小説:honto本の通販ストア

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私自身父親との関係とは良好とは言えない。

家計は比較的裕福だったはずなのだが、教育に十分にお金を出してもらえず、留学に行くことはおろか、小学校から大学まで公立以外の選択肢がなかった。

これは経済的DVという一種の暴力なのだと知ったのは大人になってからだった。

今では自分の人生にある程度満足してはいるものの、あの時留学に行けていれば、あの時私立大学という選択肢があったら…と、タラレバの世界をたまに想像してしまう。

 

自分ができなかったことがあるからこそ、自分の子どもには同じ思いを絶対にさせたくない。

この強い願いを心の拠り所に生きてきた人生だった。

安定した就職先を見つけ、とりあえずは経済的に困窮することがないという地位を得た。

 

だがある日友人と結婚・出産について話していた際、素朴な質問を投げかけられ、返答に詰まってしまった。

「子どもに同じ思いをさせたくないのは分かった。でもなんでそもそも子どもが欲しいの?」

 

確かに、新たに子どもを産まなければ、新たな幸せを作り出すことがない一方、新たな不幸を作り出すこともない。

自分の中で考えを整理することができず、この問いは胸の中でずっと燻っていた。

 

それが、今日この小説を読み、一つの答えが見つかったような気がした。

最後のシーンで、苦難を乗り越えた二人が結ばれ、新たな生命が誕生する。

ただ泣くだけのその子を見ていたら、僕が新しく生まれ直したようなそんな気がした。

新しい家族が始まる。

また、ここから始まるのだ。

私は自分が生まれ育った家庭で得られなかったものが満たせるような、幸せな家庭を作りたい。

その根底には、新たな家庭を持つことで、自分自身が過去の記憶から抜け出し、新しく生まれ直せるかもしれないという期待があるのかもしれないと気付いたのだ。

 

作中、梓が良い親になれる自信が持てず不安を漏らすシーンで、文也はこう語る。

結婚にも、子どもを持つことにも、自身があるのか、と誰かに問われたら胸を張って、あります、とは言えない。だけどさ、自分が嫌にされて嫌だったことをしなければそれで十分じゃないか。(中略)自分の親にされたことをくり返さない。その気持ちだけあれば、僕らみたいな二人でも、いつか親になれるんじゃないか。

もちろんこれはエゴであることは否定できない。

ただ、絶対に幸せな家庭を築きたいという思いを強く持った親の元に生まれてくるのであれば、その子どもは少なくとも梓や文也のような思いをすることはないだろう。

 

私自身、彼らほどのサバイバーと言えるかはわからないが、文也のこの言葉にとても勇気づけられた。

 

内容が内容だけに、過去のトラウマと対峙しながら読み進めるのは精神的にきつくはあったが、引き込まれるような展開に数時間で一気に読み切ってしまった。

自分の中で父親への感情は完全に整理しきれておらず、まだ対峙する覚悟もないが、無理に分かり合う必要はないと、憎悪の入り混じる複雑な感情を抱えたままでも良いと小全編を通じて伝えてくれた。


最後に、DV・虐待経験者はこの小説の描写がトリガーとなる可能性が十分にあります。無理のない範囲で読み進めてほしいと強く思います。

 

★★★★☆

子どもの純粋さと残酷さに胸を引き裂かれる――セリーヌ・シアマ監督『トムボーイ』

観終わってまず最初の感想:胸が痛い。。

2019年・第72回カンヌ国際映画祭脚本賞を受賞するなど高い評価を受けた「燃ゆる女の肖像」のセリーヌ・シアマ監督が、2011年に手がけた長編第2作。引っ越し先の土地で新たに知り合った友人たちとの間で男の子として過ごそうとする主人公ロールの、みずみずしくもスリリングなひと夏を描いたドラマ。ある夏休み、家族とともに新しい街に引っ越してきた10歳のロールは、自ら「ミカエル」と名乗り、少女リザをはじめとする新しく知り合った友人たちに、自分を男の子だと思い込ませることに成功する。やがてリザとは2人きりでも遊ぶようになったロールだったが、リザがミカエルとしての自分に好意を抱いていることに気づく。そのことに葛藤しつつも、距離を縮めていく2人。やがて、新学期の始まりでもある夏の終わりが近づき……。

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劇場公開終了直前となってしまったが、なんとか観ることができた。

新宿シネマカリテで鑑賞したが、平日昼間の回でなんと満席。すごい。

 

10歳でも逃れられないジェンダーロール

全編を通じひしひしと伝わる、ミカエルの「男の子」への純粋な憧れに、胸が痛くなりつつも、なんて可愛いんだろう…と悶えずにはいられなかった。

男の子たちがサッカーをして遊んでいる時、シャツを脱いで上半身裸になり、唾を吐いたりする姿を見て、家に帰ってすぐに鏡を前に真似してみるシーンは本当にいじらしい。

『燃ゆる女の肖像』でも鏡のシーンは重要な役割を果たしている*1が、この映画においても、鏡は大きな意味を持つ。

上半身裸になっても男の子のように見えることに安堵する一方、海パンを履いたら性器の違いが明らかになり落胆したり――鏡はそのまま社会からの目となり、理想と現実の差をミカエルに突きつける。

 

まだ小さな子どもであっても、男女ですでに社会的に期待され内面化する規範、振る舞い方は違う。

それを自分自身で上手く言語化することはできなくても、ただ純粋な「男の子のように振る舞いたい」という思いをもとに幼いながらに知恵を絞るミカエルの姿に胸が痛くなった。

 

10歳の時点では、第二次性徴前ということもあり外見の差はほとんどない。

これから学校に入れば、男女で分けられ、身体的にだけでなく社会的にも女であることを求められるであろう。

これから身体がどんどんと変化していくにあたり、どう折り合いをつけていくのだろうか。。。

 

まだ6歳の妹は本当に無邪気でまだ赤ちゃんのようだったが、ミカエルの想いを理解し、ミカエルを兄として扱う。

その健気な努力がとても愛らしく、劇場でも至るところから嘆息が漏れ聞こえてきた。

 

本作の母親は保守的かつ現実主義的なように描写されていたが、自分が母親の立場としてミカエルのような子どもを持ったらどう対応すべきかは、とても悩ましいと感じた。

 

14人のスタッフと20日間で撮影

小さなチームで、たった20日間で撮影されたという本作は、いわゆる低予算映画でもあるわけだが、ミカエル一家と子どもたちが自然に互いに触れ合う姿を捉えた、ある意味ホームビデオを見ているような気分になる作品だ。

子どもたちの、演技とはとても思えないような自然な戯れが印象的だったのだが、撮影の裏には苦労があったようだ。

子どもたちへの演技指導でいちばん難しかったのは、すぐに疲れてしまうことと、一度仕事したくないと思ったら働かないことです。私にとってではなく、彼らにとってちょうどいいときに撮影をやめなければなりませんでした。20日間の撮影期間しかないため、1日に2~3シーンを撮らなければなりません。協力関係と注意深さ、寛大さ、威厳を見せることのバランスを見いだす必要がありました。

セリーヌ・シアマ監督、『トムボーイ』主演ゾエ・エランは「逸材でした」 | cinemacafe.net

なお、挿入歌は一曲のみ。基本的にはとても静かで、自然の音や、身体が発する音だけがクリアに聞こえる。これぞ映画館で集中して観るべき作品。

 

主人公は「彼女」?「彼」?

なお、本作の感想等を検索していると、ミカエルを「性同一性障害」としたり、「彼女」としたりする場合があるようだが、まだ10歳でありアイデンティティも確立していないようなミカエルを一方的に障害と呼ぶことには個人的には違和感を覚える。

大手メディアすらミカエルのことを「少女」と書いて宣伝し、指摘があり修正が行われたとのことだが、私自身は主人公のことを「彼」でも「彼女」でもなく「ロール」でもなく、主人公が望む姿である「ミカエル」と呼びたいと思う。

 

あとがき

個人的には、2020年に『燃ゆる女の肖像』を観て衝撃を受けてからというもの、セリーヌ・シアマ監督はずっと気になっていた。

トムボーイ』は2011年に製作された作品だが、感情の機微をアップで映し出すところは『燃ゆる女の肖像』と通じるものがあると感じた。

本作では中性的な魅力を存分に発揮した主人公ミカエル役の俳優さんは、2021年現在、素敵な女性に成長している。

(インスタ:https://www.instagram.com/zoeheran_/

 

いや~フランスの子どもたち本当に可愛い。特にミカエル兄妹には大変癒されました…。

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★★★★☆

*1:衝撃の「股間に顔が…」というシーン。未視聴の方はぜひ検索してみてほしい。

【読書記録】8月&9月読んだ本

もう9月も終わりに近づいているが、今年の夏は、例年通り暑いかと思えば急に雨が降り出したり気温が上下したりして、いわゆる夏っぽい日が少なかったように思う。

もともとインドアな私は、不安定な気候の中ますます外に出る気を失い、基本的に家に引きこもっていた結果、8月・9月は気づけば月10冊ペースで本を読み耽っていたようだ。

今回は、今夏読んだ本の中で特に印象に残った本・おすすめしたい本を、ネタバレしない範囲で何冊か紹介したいと思う。

 

王谷晶著『ババヤガの夜』

愛ではない。愛していないから憎みもしない。憎んでないから一緒にいられる−。暴力を唯一の趣味とする新道依子は、腕を買われ暴力団会長の一人娘を護衛することになり…。バイオレンスアクション。

honto.jp

「バイオレントなシスターフッド小説」という全く新しい境地を切り開く本作。

女性向け作家による、女性を主人公にした作品には珍しく、作中はバイオレンス描写のオンパレード。

暴力的なまでの速度で物語を駆け抜ける、そのスピード感に圧倒され、数時間で読み切ってしまった。

映画『マッドマックス怒りのデスロード』と『お嬢さん』を掛け合わせたようなストーリー。

内容としては箱入り娘のお嬢さんが逃亡するという話なのだが、このお嬢さんが一筋縄ではいかないのがポイント。ただの美しい少女、で終わらない肝っ玉座っているお嬢さんが最高にかっこいい。

後半では、それまで意に反して着飾らさせられていた反動で中性的な格好を好むようになるのだが、そこに脱コルの精神を感じますます好きになった(脱コルについてはまた別の記事で触れたい)。

小説自体は、暴力団という狭い組織の中の話ではあるが、実際にはこの世の中すべてに当てはまる真理を指摘する本作。

最後に「騙された…!」となる展開なのだが、この小説自体の信念が反・固定観念なことを考えると、読者それぞれがひそかに持っている固定観念の存在を気づかせる構造になっていることに思わずう、上手い…と唸った。

男女の差だけでなく、人種の差も、つまらない固定観念を生むだけの取るに足らない「カタ」であり、大切なのは目の前の人間を個として扱うことであるというメッセージを強く感じた一冊だった。

作者の王谷晶さんはレズビアンでありフェミニストであることを公言しており、Twitterからうかがえる政治的思想もリベラルで、色んな面で支持できる素敵な方。次回作も楽しみ。

個人的には映画化してほしい作品ランキング圧倒的No.1。近いうちに実現しますように。

 

松田青子著『自分で名付ける』

「母性」なんか知るか。

「結婚」「自然分娩」「母乳」などなど、「違和感」を吹き飛ばす、史上もっとも風通しのいい育児エッセイが誕生!

結婚制度の不自由さ、無痛分娩のありがたみ、ゾンビと化した産後、妊娠線というタトゥー、ワンオペ育児の恐怖、ベビーカーに対する風当たりの強さ……。

子育て中に絶え間なく押しよせる無数の「うわーっ」を一つずつ掬いあげて言葉にする、この時代の新バイブル!

honto.jp

デビュー作『スタッキング可能』で出会い、その自由かつ破壊的な小説のスタイルに衝撃を受けて以降大好きな作家、松田青子さん。

本作は、事実婚状態で出産を経験した筆者が、独自の冷静かつ批判的な視点で妊娠・出産を巡る違和感の数々について綴ったエッセイ。

現状に強い怒りを抱えながらも、問題を一歩引いたところから冷静に観察し、時に皮肉も加えながら淡々と描写する筆者の姿勢に、個人的に強い尊敬の念を覚えた(自分なら怒りに身を任せ叫びまくって抗議してしまいそうなので…。)。

ただぶつぶつ文句を垂れるのではなく、自らの経験を共有したり、日々の行動で抗議の意を示したりする筆者。私もこんなかっこいい女性になりたいと素直に思った。

育児のコツ満載!というタイプの育児エッセイでは全くないが、妊婦がぶち当たる壁一つ一つに疑問を投げかけ、母親とはこうあるべきという呪縛を自ら破壊していく筆者の姿は、規範にがんじがらめになった多くの女性に勇気を与えると思う。

自分自身、将来に出産することを予定しているが、妊娠・出産を巡る現状を不条理も含め正直に記してくれている本作のおかげで、ある意味改めて決心ができたように思う。

 

最近、中絶できなかった女性がやむを得ず出産し、その後適切なケアができず事件になるというケースが多発していることからもわかるように、日本におけるリプロダクティブライツの保障は絶望的に遅れている。

子宮を、妊娠能力を持っているというそれだけで罰されるようにも感じられる昨今。

まず自分事としては、毎月地味に痛い出費であるピルが安くなり(フランスだと若年層は無料らしい…)、出産する頃には無痛分娩がより広まり、費用も安くなっていてほしい…。

その他、避妊手段の多様化、ピル・アフターピルへのアクセス性の強化、中絶手術の術式のアップデート、そして無痛分娩の普及等、課題は山積している。

松田青子さんのように疑問の声を上げる女性が増えれば、少しは現状を変えられるのではないか。その想いを胸に、私自身できる範囲で自分の考えや経験を広めていきたいと思う。

 

イ・ミンギョン著『失われた賃金を求めて』

「女性がもっと受け取れるはずだった賃金の金額を求めよ」
『私たちにはことばが必要だ』で鮮烈な印象を与えたイ・ミンギョン、次は男女の賃金格差に斬り込んだ!男女賃金格差がOECD加盟国中「不動のワースト1位」の韓国の社会事情は、「不動のワースト2位」の日本でも共感必至。賃金差別は存在する!

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フェミニストの教科書的存在である作品『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』の著者であるイ・ミンギョンが、韓国の男女賃金格差の実態を暴く本作。

現状に慣れてしまっている私たち女性は、この社会に厳然と存在する不条理を、ある意味前提条件として受け入れてしまっているように思う。

この本は、それら不条理を文章として読者の眼前に容赦なく突き付ける。

 

個人的な話をすると、私自身は就活の段階から、「福利厚生がしっかりしていて、男女平等が当然のこととして尊重されている職場」をほぼ第一条件にしていたため、現在の職場であからさまな賃金格差を実感することは全くない。

しかし、よくよく見てみれば、重要なポストはほぼ男性職員が占めていたり、女性管理職の割合はいまだに低かったりと、当然ながら男女平等が完全に実現しているわけでないのが現状だ。

また、男女賃金格差の大きな要因のうちの一つが正規・非正規職員の給与格差であるが、私自身、出産等を契機にもし短時間勤務可能な職場を探すことになったとしたら、選択肢のほとんどが非正規職になるだろうし、給与はかなり下がることが容易に想像できる。

そもそも一日8時間、週5日勤務を前提とし、さらに一定時間の残業もこなせる人材のみ正規職員として雇用すること自体おかしいし、社会的弱者への搾取に依存した派遣契約は今すぐ制度として規制するべきだ。

「お世話をしてくれる妻がいる健康な成人男性」を社会のデフォルトとして制度設計するのはとうに時代遅れだ。

女性や障害者等のマイノリティをはじめ、社会の構成員それぞれが一番働きやすく、自分の能力を発揮できる雇用形態・労働環境の実現――働き方の多様性がより広がるといいなと、そう思わずにはいられない。

 

フィリップ・フック著、中山 ゆかり訳『サザビーズで朝食を』

シャガール、ミロはブルーが多いほど高額に? ゴッホは自殺したからこそ価値が高まった? サザビーズのディレクターが、長年の経験をもとに、作品の様式からオークションの裏側まで、美術にまつわるトピックを解説する。

honto.jp

下北沢の古本屋で見つけ、気になって読んでみた一冊。

現在も操業する世界最古の国際競売会社であるサザビーズで画商として勤務する作者が、美術市場の裏側を暴露する刺激的な作品。

美術館を訪れた際、正直「この絵、自分でも描けそう…」「なんでこれが美術館に?」と思ってしまうことはたまにある。

美術作品の価値はどう決められているのだろう?という素朴な疑問に対し、本作はユーモアと皮肉たっぷりに、価格決定のカラクリを分かりやすく説明してくれる。

なんと、ある画家の作品の価値を高めるため、死因すら、なるべくドラマチックに聞こえるよう脚色したがるという風潮があるという。びっくり…。

分厚い本ではあるが、気になる章だけ読んでみても、普通では知りえない情報を得ることができると思う。教養本としてもおすすめ。

 

 

以上、どれも読みやすくも大変興味深い内容で、4冊ともおすすめ。

最近は自分の中でドラマ熱が再燃しているので、それについてもまた紹介したい。

では、最近急に寒くなってきたので皆さま体調にお気をつけて。

息を呑むほど美しい映画『モロッコ、彼女たちの朝』

 

地中海に面する北アフリカの「魅惑の国」モロッコから、小さな宝石のような映画が届いた。カサブランカメディナ(旧市街)で、女手ひとつでパン屋を営むアブラと、その扉をノックした未婚の妊婦サミア。孤独を抱えていたふたりだったが、丁寧に捏ね紡ぐパン作りが心を繋ぎ、やがて互いの人生に光をもたらしてゆく。
ロッコの伝統的なパンや焼き菓子、幾何学模様が美しいインテリアやアラビア音楽が誘う異国情緒とともに、フェルメールやカラヴァッジョといった西洋画家に影響を受けたという質感豊かな色彩と光で、親密なドラマを描き出す。自分らしく生きると決めた彼女たちが迎える朝の景色とは──。

映画『モロッコ、彼女たちの朝』公式サイト

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ロッコ生まれの映画監督、脚本家、女優であり、本作で長編監督デビューしたマリヤム・トゥザニが監督・脚本を務めた本作。

過去に家族で世話をした未婚の妊婦との思い出をもとに製作された作品だという。

なお、製作・共同脚本には、本年度カンヌ国際映画祭コンペティション部門に監督作が正式出品された、トゥザニ監督の夫でもあるナビール・アユーシュが参加している。(夫婦共同で映画製作だなんて、ロ、ロマンチック、、、。)

 

本作は2019年のカンヌを皮切りに世界中の映画祭で喝采を浴び、女性監督初のアカデミー賞ロッコ代表に選出。さらに、現在までにアメリカ、フランス、ドイツなど欧米を中心に公開され、日本でも初めて(!)劇場公開されるモロッコの長編劇映画となったという。

 

『17歳の瞳に映る世界』をTOHOシネマズ シャンテにて鑑賞した際、たまたまこの映画の予告を目にし、その映像のあまりの美しさに絶対に劇場に足を運ぶことを決意した。

『17歳の瞳に映る世界』の感想はこちら。

tant-6v6.hatenablog.com

 

個人的に初めて観るモロッコ映画だったのだが、とてもとてもよかった…。

 

全体的に会話が少なく、表情から感情の機敏を読み取らせる静かな映画。呼吸、周囲の騒音、赤ちゃんの鳴き声など、それぞれの音がクリアに聞こえてきて、それらに自然と神経が集中させられた。

 

台詞が少ない分、それぞれの女性の性格は表情・動作などの視覚的情報で表現される。

パン屋の店主であるアブラはいつも硬い表情で、何事もきっちりとこなさなければ気が済まないタイプ。

家族での夕食時にはミリ単位でカトラリー配置にこだわる。

夫を亡くしたあと女手一つでパン屋を切り盛りし子育てしてきた彼女は、自分が苦労してきたからこそ、娘には苦労させたくないという思いが強くあるのだろう。

毎晩、娘の勉強の進捗を細かく確認し、ことあるごとに努力の大切さを説く。

そんな彼女は、最初に妊婦サミアを見かけた際は、おそらく、出産そしてその後まで面倒を見切れる保証がない以上、必要以上に交流を持つと自身も辛くなってしまうと思ったのだろう、最初は冷たく接する。

 

しかし、サミアのあたたかい心や真摯なまなざしに触れ打ち解けてからは、笑顔が増え、生活自体も段々と明るいものになっていく。

 

二人の心情の変化は、画面や音楽によっても描写される。

後述するアブラの過去のトラウマの吐露があり、サミアがそれに寄り添い距離が近づいた後は雰囲気が一変。

軽快な音楽(普段聞き慣れない音楽なこともあって余計に楽しく感じるのは気のせいだろうか)が鳴り出すほか、画面自体の色彩も一気に明るくなり、二人の生活に文字通り光が差し込み出す。

 

二人の心情の変化を画面・音響でも描き出すという点はトゥザニ監督も強く意識していたらしく、インタビューでは以下のように語っている。

2人の出会い、そして彼女たちが変わっていく様子にフォーカスしたいと思いました。そのため登場人物たちを、劇場の舞台のように窓が1つあるだけの閉ざされた空間で撮影しました。また、感情を説明する脚本のト書きも極力シンプルにしました。

映画『モロッコ、彼女たちの朝』世界で脚光を浴びる新星マリヤム・トゥザニ監督のインタビューが到着!—本日公開 | anemo

 

2人の距離が近づくきっかけとなったのが、アブラの過去のトラウマの吐露だ。

アブラが昔好きだったという音楽を聴くことを頑なに拒否していることに気づいたサミアは、アブラにその理由を問い詰める。

アブラは、夫を突然亡くしたものの、死後もなお夫の身体は夫の家族に管理され、満足にさよならを言えず、わだかまりを抱えてきた。

それ以降、思い出の音楽も聞かず、女としての自分を殺し自立して生きてきたという。

アブラが夫の死から前に進めていないことに気づいたサミアは、嫌がるアブラに無理矢理思い出の音楽を流し聞かせる。

アブラにとっては深いトラウマであり、本気で抵抗し半ば殺意を持ったようにサミアを睨み抵抗する彼女だったが、結局は過去と向き合うまたとない契機となり、2人は急速に距離を縮めることになる。

 

設定としては妊婦であるサミアをアブラが助けるという流れではあるが、一方的に助ける、助けられるの関係ではなく、お互いのことを想い真摯に向き合い、助け合う姿がとても印象的だった。

恋愛でも、家族関係でもない、名前の付けられない関係ではあるが、女同士しっかりと連帯している姿が明確に描写されており、権利のないものとして苦しんできたもの同士だからこそ、お互い想いをはっきり口にしなくても通じ合い助け合うことができる、そんな関係に強い憧れを抱いた。

 

ラストはオープンエンディングとなっており、その先の展開の予想は完全に視聴者に委ねられる。

サミアの最後の慟哭は諦めか、それとも…?

どちらにせよ、サミアの赤ちゃんを愛おしむ姿を見て、2人、そしてアブラとその娘の将来が希望に満ちていることを心から祈った。

 

この物語はイスラム圏であるモロッコを舞台にしており、作中で語られる未婚の母への社会的スティグマの強さは恐ろしいものがある。

だが、忘れてはならないのは、日本でも未婚の母に対しては依然厳しい目が向けられていることだ。社会的に逸脱者として扱われながら、厳しい経済状況の中でギリギリの生活を迫られているシングルマザーの現状を直視することも必要だ。

これを違う国の物語としてただ消費することはできない。

重要な問題提起をしてくれたこの作品と監督の想いが、より多くの人に届くことを祈る。

 

この映画を特別なものにしている要素の一つに、映像の圧倒的美しさがある。

2人がパンをこねるシーンは、フェルメールの絵画のようでため息が出るほど美しい…。

まさにこれぞ映画館で観るべき作品。超おすすめです。

★★★★★

 

女女の最高エッセイ『女ふたり、暮らしています』

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単なるルームメイトでも、恋人同士でもない。一人暮らしに孤独や不安を感じはじめたふたりは、尊敬できて気の合う相手を人生の「パートナー」に選んだ−。女ふたりと猫4匹の愉快な生活を綴る。

シングルでも結婚でもない、 女2猫4の愉快な生活。

単なるルームメイトでも、恋人同士でもない。
一人暮らしに孤独や不安を感じはじめたふたりは、尊敬できて気の合う相手を人生の「パートナー」に選んだ。

小説家チョン・セランも絶賛した韓国で話題の名作エッセイ、ついに日本上陸!

女ふたり、暮らしています。の通販/キム ハナ/ファン ソヌ - 紙の本:honto本の通販ストア

 

日本でも発売以降SNS等で話題沸騰だった本作、やっと読了。

今まで読んだエッセイ、いや今まで読んだ本全般の中でもトップ10には入るような、とても素敵な本だった。

 

韓国の人気コピーライターと元ファッション誌編集者が40代を目前にローンを組んでマンションを購入して始まった女2人+猫4匹の"分子家族"の日々が紡がれたエッセイ。

一般の家族制度や慣習にとらわれず、お互いへの純粋な好意・思いやりで成り立つ、二人のあたたかく充実した暮らしに、思わず歯ぎしりするほどの羨ましさを覚えた。

友達同士とはいえ、あくまで他人と同じ家で暮らすということに伴う難しさや葛藤も語っていて、それをどう克服したのかというところまで正直に記している点がとてもよかった。

 

随所に家の中の写真が載っており、二人が厳選した家具や本、雑貨があたたかい光に照らされている様子はまさに理想の生活そのもの。

40代になり、金銭的・精神的に余裕があり、自分の生活スタイルや好きなもの・ことがはっきりしているであろう二人。

お互いが好きなことについてはお金をかけてとことんこだわる一方、相方により提示される新たな価値観に対しても心を開いてどんどん挑戦していく。

同年代には結婚し、家事・育児や義実家への親孝行で忙殺されている女性も多い中、「あくまで自分たち自身の人生を心ゆくまで謳歌する」という姿勢の二人はとてもまぶしく見える。

 

作中でも政府の伝統的家族制度への固執を批判し、新たな家族間の提唱をしている彼女たちだが、週刊文春WOMAN 2021 夏号での松田青子さん(同じく家族制度に懐疑的で、事実婚で出産)とのインタビューでは、伝統的「女らしさ」による抑圧から解放され、自分らしい生き方を追求する二人の決意が読み取れる。

【週刊文春WOMAN 目次】小室佳代さん密着取材一年 小誌記者に語った息子の子育て、金銭トラブル、眞子さまへの尊敬/特集ジェンダー&フェミニズム/香取慎吾表紙画第10弾 2021年 夏号 | 週刊文春WOMAN | 文春オンライン

 

女性が社会的に期待されている役割を拒否した際、バッシングが発生してしまう世の中であるが、そんな中だからこそ、それぞれの女性が個々の小さな反抗の経験を共有したり、声を上げていくことで、女性同士が励ましあいゆるく連帯することが可能になるのだろう。

彼女たちのような生き方を選択する女性がもっともっと増えることを祈って。

 

 

キム・スジンさんによるイラストにも癒される…。

https://www.instagram.com/kimmsujin/?hl=ja

一家に一冊置いておきたい。そんな本。

★★★★★