エリザ・ヒットマン監督『17歳の瞳に映る世界』
新鋭女性監督エリザ・ヒットマンが少女たちの勇敢な旅路を描き、第70回ベルリン国際映画祭銀熊賞(審査員グランプリ)受賞したドラマ。友達も少なく、目立たない17歳の高校生のオータムは、ある日妊娠していたことを知る。彼女の住むペンシルベニアでは未成年者は両親の同意がなければ中絶手術を受けることができない。同じスーパーでアルバイトをしている親友でもある従妹のスカイラーは、オータムの異変に気付き、金を工面して、ふたりで中絶に両親の同意が必要ないニューヨークに向かう。性的アイデンティティに悩む青年を描いた「ブルックリンの片隅で」で2017年サンダンス映画祭監督賞を受賞し、一躍注目を集めたエリザ・ヒットマンの長編3作目。「ムーンライト」のバリー・ジェンキンスが製作総指揮に名を連ねる。
2021年7月16日公開の作品。TOHOシネマズシャンテにて鑑賞。
中絶措置を受けるため従姉妹同士でNYまで向かうロードトリップの物語。
余計な展開を削ぎ落とした極めてシンプルなストーリー、必要以上に言葉を交わさない彼女たち。
彼女たちの視線・心の動きがクリアに映し出される。
オータムを尊重しない彼氏、ミソジニストの父親、保守的な医者等に半ば絶望を感じていた彼女は、NYのクリニックでやっと真っ当な大人たちと出会うことができる。
傷ついているはずの彼女に寄り添える大人の何と少ないことか。
それまで眠りに身を任せることへの不安が何度も描かれる分、最後に安心して体を任せることができるシーンの重要性がわかる。
田舎の高校生ふたり、キラキラしていないふたりの視点で見る、冷たい都会としてのNYの描写も面白かった。
ぶっきらぼうなザ思春期みたいな物言いをしてしまう年代でこんなにも重い現実に向き合う必要がある、という辛さ。
プロミシングヤングウーマンのキャシーもぶっきらぼうなキャラクターだったが、いつも愛想よくニコニコしているスカイラーに対して常にぶっきらぼうなオータム。それだけで男からの扱いがハッキリ違う。
スカイラーもうまく生き抜くための処世術として愛想を身につけてるのが辛い。
男性からの舐めるような視線に辟易しながらも、必要なときにはそれを頼らざるを得ない痛みは、女性ならば身に染みているのではないだろうか。
この映画を観て痛いほど感じたのは、妊娠を巡る諸問題における男女の非対称性。
妊娠のためには男女両方の働きかけが必要なのに、なぜ女ばかりこんなにも責められ苦労しなければならないのか。
ドラマティックな展開ではないからこそ、この物語の普遍性ーーどこでも起こりうる話だということが示されている。
大変な良作だったのだが、文句をつけるならば、やはり邦題だろう。
原題を直訳するのが難しかったのはわかるが、原題が作中の重要なシーンとリンクする以上、ニュアンスだけでも邦題に反映してほしかった。
また、シンプルなストーリー、構成でも画面が華やいでいたのは、演出の力もさることながら、主演二人が美しい白人女性だったことも大きな要因としてあるだろう。
エスニックマイノリティや、多様な体形・見た目の女性が起用されていたらまた違った印象になっていたのだろう。
とはいえ、劇場まで足を運び観る価値が十分にあった作品だった。
個人的には駅のポールで二人が手を繋ぐシーンがお気に入り。
★★★★☆
(追記)
本作の撮影には、Kodakの16mmフィルムが使われている。
フィルムの質感を楽しむためにも、劇場に足を運ぶ価値があるのではないだろうか。
韓国の絶対的DIVAチョンハ「Stay Tonight」
チョンハ(韓: 청하、1996年2月9日 - )は、韓国の歌手。MNHエンターテインメント所属。元I.O.Iメンバー。2017年6月7日にミニアルバム『Hands on Me』でソロデビュー[1]。
KPOPファン歴10年以上、生粋のSMオタである私。
オーディション番組がどうも苦手で、I.O.Iは通らなかったのだが、ある日チョンハの「Stay Tonight」パフォーマンスを観て衝撃を受けた。
この曲の特徴はなんといっても振り付け。Voguing, vogueと呼ばれるこのダンスは、60年代のアメリカのゲイカルチャーの中で発祥したという。Voguingという名称は雑誌Vogueからきており、雑誌のモデルがとるようなポーズ、手指の動きが非常に特徴的だ。
90年代にリリースされたマドンナの『Vogue』によりその知名度を増したVoguingは、今もLGBTQカルチャーの中で大きな意味を持つという。
自身の身体に必ずしも自信を持てる人が全てではなく、疎外感を感じがちな彼らにとって、ダンスは自分の身体を使い自己表現できる貴重なツールだ。
ある当事者は、Voguingを通じ自らを好きに表現でき、さらに周囲から注目を集めることで、独りだという感覚から逃れることができると語る。
このようにvoguingは歴史的に非常に重要な意味を持ち、それを自らの表現の一部に取り入れるためには多大な知識と尊敬が必要不可欠である。
その意味で、kpopで初めてVoguingの要素をとり入れたチョンハは大いに注目に値する。
MV内ではドラァグクイーンを連想させるメイク、ファッション、ハイヒールに身を包んだ男女が美しい群舞を披露している。チョンハはもちろん、ダンサー(チョンハは仲間を非常に大切にし、彼らを「バックダンサー」ということを嫌う)全員がこの曲の趣旨を完璧に理解し、表情、手指の先まで意識が行き届いていることがひしひしと感じられる。
一目で当該コミニュティへのリスペクトと楽曲への強いこだわりを見てとることができる。難易度の高いテーマを見事に消化した上で更にチョンハ自身の色も表現しており、KPOP史に残る傑作であると私は思う。
この曲でカムバックしなかったことが悔やまれる…。
この3か月後に「Play」でカムバすることになるのだが、Playでは打って変わって華やかなお祭りのようなステージを披露する。
要素を詰め込みすぎて下手すると消化不良になりそうな曲・振り付けだが、チョンハの圧倒的スキルで軽々とこなしてしまうあたり、本当に感嘆とする。
また、その後「Dream of You」でもチョンハ色を前面に押し出している。
サビ内前半ではMJオマージュの男性的な振り付け、後半ではマドンナのような女性的な踊りを披露し、性別の区別なく表現者として自分らしい表現を追い求める姿が見て取れる。
常に新たなイメージに挑戦し続けるチョンハ。
彼女の旅路はまだ始まったばかり。
辛くても向き合うべき現実『ジェニーの記憶』
ドキュメンタリー監督ジェニファー・フォックスが劇映画のメガホンを取り、自身の体験をもとに性的虐待の問題に迫ったドラマ。ドキュメンタリー監督として活躍するジェニーのもとに、離れて暮らす母親から電話が掛かってくる。母親はジェニーの子ども時代の日記を読んで困惑している様子。心当たりのない彼女は、母親に送ってもらった日記を読み返すうちに自身の13歳の夏を回想しはじめる。サマースクールで乗馬を教えてくれたMrs.Gやランニングコーチのビルと過ごしたひと夏は、彼女にとって美しい記憶だったが……。「ワイルド・アット・ハート」のローラ・ダーンが成長したジェニー役を演じ、「エクソシスト」のエレン・バースティン、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス」のエリザベス・デビッキ、「ラン・オールナイト」のコモンが共演。
最初に個人的な話をすると、鑑賞前、ポスターの印象からか「虐待的な母とそれに苦しんでいた娘」の話だと勘違いしていた私は、鑑賞後あまりに強いショックを受け、泣いているのだか笑っているのだかわからない状態になった。
何はともあれ、本作は監督自身の経験をもとに製作された映画である。
子供時代は誰もが家庭に不満を持つものだが、その心に付け入り洗脳することがいかに簡単か、そしてそれがスポーツを通じて行われるとより一層容易にできてしまうということが克明に示された作品であった。
作中、どうしても思い出されたのが、シャネル・ミラー著『私の名前を知って』だ。
大学のキャンパス内で性的暴行を受けた主人公が、自らの記憶と対峙しながら、自分の尊厳のため、そしてひいては広く女性たちのために傷つきながらも戦う姿を描いた作品だ。
筆者の卓越した筆力により、まるでフィクションかのように思える仕上がりとなっているが、実際には筆者自身の生の経験を文章に落とし込んだノンフィクション作品となっている。
この筆者もジェニファー・フォックス同様、実名を用い自らの体験を世間に公開することを決意したのだが、実名を晒すという覚悟とともに語られる生の物語は、フィクションでは作り出すことのできない、まるで心に直接叩き込まれるような圧倒的なリアルさと力強さを持つ。
本作では、過去の美しい思い出と正面から向き合い否定することの難しさ、当時の記憶の曖昧さ、そして虐待的な行為が心に残す傷の深さが、リアルな切実さを持って描かれている。
『私の名前を知って』でも、つらい記憶に立ち返るたびに心は大変な苦しみを覚えるが、それでも過去を何度でも振り返り続けることの重要さが強調されているが、本作でも、あえて同じ回想シーンを何度も用いながら、少しずつ記憶の核心に迫るさまが描写されている。
観た後決して晴れ晴れしい気持ちになる作品ではないが、精神的に安定しているときにぜひ一度鑑賞することを勧めたい。
(ポジティブなことを一つ挙げるのであれば、『テネット』のエリザベス・デビッキが相変わらず妖艶で美しいのでそこだけでも必見。)
★★★★☆
エメラルド・フェネル監督『プロミシングヤングウーマン』
2020年公開、日本では2021年7月16日公開。
監督は、俳優、小説家とマルチに活躍する弱冠36歳のエメラルド・フェネルであり、本作が監督デビュー作である。
主演はキャリー・マリガン。
その他、コメディアンのボー・バーナム、『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』のラバーン・コックス(なんと49歳だという。全くそうは見えない。)などが出演している。
本作ではザ・キラキラ女子役であるアリソン・ブリーは、『ボージャック・ホースマン』では硬派フェミニスト、ダイアンの声を演じている。
本作は、クラブで男性の股間がドアップに映し出されるシーンから始まる。思わずぎょっとするのだが、ここでふと思う。今までクラブシーンといえば、なまめかしい女性の腰のイメージばかりではなかったか。
初っ端からいきなりミラーリングの手法がとられているというわけだ。
その後、泥酔したフリでお持ち帰りされる主人公キャシーだが、男が下着に手をかけ、さて今から始めるぞといった瞬間に、酔ったフリをやめ、真顔で凄む。
「お前、何やってんだよ。」と。
男の家から追い出され、スーツ姿で自宅まで歩いて朝帰りをするキャシーだが、その歩き方、キャットコールのあしらい方、何よりオーラ、全てが最高にクールなのだ。この時点ですでにキャシーのことが大好きになっていた。
若干の毒々しさも感じられるオープニングから打って変わり、キャシーの自宅やコーヒーショップでは、90年代後半~2000年代の甘くカワイイ世界観に圧倒される。
キャシー自身の服装・ヘアメイクも、可愛らしい雰囲気の巻き下ろし髪・ドレスから、退廃的なムードのカラーエクステ・囲み目アイライナー、極めつけはカラフルなボブヘアーにセクシーなナース服までバラエティに富んでおり、ファッションバイブルにしたくなるような作品だ。
プロットの良さは言わずもがなであるが、映像のクオリティとしても、アイコニックなカットが随所に見られる、まるでミュージックビデオかのような仕上がりとなっている。
性暴力の被害者は、被害を主張するにあたり、自らに落ち度が全くなかったこと、自らの潔白性、完全性を常に求められる。
その点、完璧に愛されるキャラクター設定ではなく、あくまで等身大、ありのままの姿でいてくれるキャシーだからこそ、多くの女性が直感的に感情移入できたのではないだろうか。
ラスト、彼女の「復讐」が不完全な形で幕を閉じることになってしまい、かつて悪行に加担した彼の罪は不問で終わる。
直接罪を問いただされず、若干の罪悪感を抱えながらも基本的には忘れて暮らしている男性も多いだろう。
彼らが今後人生でどのようなふるまいを選択していくのか。そこまで考えさせるという点で、秀逸なエンディングだったように思う。
個人的にはすべてが胸に刺さりすぎて、鑑賞後数時間は半ばパニックを起こしたようにずっと泣いていた。
作中の女性たちに起こったことは、何も特殊な事件ではない。
大学、サークル、バイト先、職場、あらゆる場所で誰もが経験しうることなのだ。
事実、作中、学生時代の性暴力を「若気の至り」「あの頃はガキだった」とする男性たちの姿勢には私自身既視感しか覚えなかった。
この作品は大変衝撃的な内容であることは確かだが、誰もが一歩間違えれば彼女らのような経験をすることになってしまうということを、特に若い世代は強く認識すべきだ。
個人的には、例えば大学の入学式で学長が偉そうな御託を並べるよりかは、この映画を流した方がよっぽど学生の身のためになると思う。
プロミシングヤングマン、将来有望な若い男性を無条件に保護する時代はもう終わった。
女性専用車両導入の一因にもなった御堂筋線事件、シャネル・ミラー『私の名前を知って』のスタンフォード大学構内での事件、その他何千、何万もの事件での性暴力告発事件でいつでも救われてきたプロミシングヤングマンの裏には、将来を打ち砕かれたプロミシングヤングウーマンがいた。
今こそ、彼女らのそばに寄り添い、ともに声を挙げていくべきだ。
1人でも多くの人がこの映画を観ることを祈る。
(2021年7月24日追記)
Twitter上で感想を検索すると、ストーリー展開が嫌いだったという声がいくつか聞かれた。
確かに、犯人を痛めつけるのにより安全かつ確実な方法を取るべきだったかもしれないし、あの描写は性産業従事者に恐怖を与えるものであるのは間違いない。
しかし悲しいことに、現実に性産業従事者は実際に不安定な位置にいる。
その現実自体は否定することはできない。
正直な描写で非常に好感が持てると個人的には思った。
★★★★★
ハン・ガン『菜食主義者』考
韓国で最も権威ある文学賞と言われている李箱(イ・サン)文学賞を受賞し、国内で高い評価を得た本作。
英語圏でも、韓国人で初めてマン・ブッカー賞インターナショナル部門を受賞するなど、大きな注目を集めている。
日本語への翻訳はきむ ふな氏が、英語への翻訳はデボラ・スミス氏が行った。
ごく平凡な女だったはずの妻・ヨンヘが、ある日突然、肉食を拒否し、日に日にやせ細っていく姿を見つめる夫(「菜食主義者」)、妻の妹・ヨンヘを芸術的・性的対象として狂おしいほど求め、あるイメージの虜となってゆく姉の夫(「蒙古斑」)、変わり果てた妹、家を去った夫、幼い息子……脆くも崩れ始めた日常の中で、もがきながら進もうとする姉・インへ(「木の花火」)―
3人の目を通して語られる連作小説集。
(CHEKCCORI BOOK HOUSE / 菜食主義者)
物語は、支配的な父親に、妻のことを道具としか思わない夫に、ひいては家族制度自体に抑圧され続けてきた妹・ヨンヘを中心に展開していく。
ヨンヘは社会で暗黙の了解として求められる、男性のケア役という役割を上手く果たすことができず、娘として、女性として、評価されずに生きてきた。
自分を押し殺すことに慣れてしまった彼女は、いつからか夢の中で聞こえる声に耳を傾けるようになる。
ある日、夢であるお告げを聞く。
肉を食べるなと。
その声に従い、父親や夫の制止を振り切り菜食主義者となることを選択したことをきっかけに、現実世界と夢の狭間がどんどん曖昧になっていく。
そして、いつしか願望が芽生えるようになる。
何も声を発さなくていい植物になりたいーー美しく咲く花や、どっしりと枝を構える木になりたいと。
夢が現実を侵食し尽くした結果、植物になるために、肉を、ひいては食べること自体をやめるようになり、栄養失調で生死の狭間を彷徨う彼女。
一切の治療を拒否してまで彼女が証明したかったことは、彼女の体ーーずっと男性に支配され続けてきた体ーーは、彼女自身のものであり、自分の体に何をするのも自分で決める権利があると言うこと。
これまで抑圧されてきた反動かのように、命を危険に晒しながらも、閉鎖病棟に入れられても尚自らの意思を押し通し続ける。
一方で姉は、同じく父親に支配される環境にいながら、妹より上手く立ち回ったため、表面上は充実した日々を送っているように見える。
しかし、狂い始める妹の姿を見て、はたと気づく。結局は自分も生き抜くために最適な道を選んでその場その場で適応してきただけで、その選択に、そして選択の積み重なりである人生自体に、自分の意思など介在していないのだと。
自分の周りのものに自分が選び取ったものなどなく、「自分の人生など、ずっと不条理に耐え続けてきた歴史の積み重なりに過ぎない」と悟る。
(ここでカンファギル『別の人』での悟りとリンクする。)
頑張り屋で、自己犠牲精神の強い長女として役割を果たしていたのも、成熟の証ではなく臆病さからだった。父親に歯向かう勇気がなかっただけ、妹の苦しみを見て見ぬふりをしていただけなのだ。
そして、いままで目を逸らしていたが、いざ深く自身と対峙してみれば、そこには自らのあまりの空虚さに絶望を隠しきれない疲れ果てた自分がいる。
そう気づいた時、自分と妹の間に決定的な違いなどないのだと、自分もふとしたきっかけで妹のように壊れてしまうかもしれないのだと知る。
家父長制が女性たちに及ぼす影響の根深さを美しい文章で浮き彫りにした傑作であった。
なお、私は今回英語版『The Vegetarian』を読んだのだが、デボラ・スミス氏による翻訳は国際的には評価されている一方、韓国国内では「誤訳だ」とする見方もあるようだ。
翻訳については、基本的には原典を正確に訳すことが求められるが、特に英語と韓国語では、文法、表現方法等が大きく異なるため、原典のニュアンスを表現するために、ある程度創造的な表現を用いる必要が出てくる。
本作では、静かで淡々とした描写が特徴的だった原典に対し、英訳版では必要以上の装飾が付け加えられていたとの批判があるようだ。
韓国語はわからないので何とも言えないが、英語の世界共通言語としての支配については、ポン・ジュノ監督作『Okja』で、英語話者が重要な局面で韓国語を恣意的に翻訳するシーンが思い出された。
何はともあれ、家父長制の暴力的なまでの支配力についての小説は多く存在するが、ここまでオリジナリティを持ちつつも普遍的に心に訴えかける作品はほかにないのではないだろうかと思う。
また、ヨンヘの姉の夫*1がヨンヘを性的・芸術的対象として狂おしいほど求め次第に破滅への道へ向かっていく章では、鮮やかなイメージを容易に想起させる卓越した描写力で夫の劣情が記されており、こんなにも美しく情事の描写ができるのかと感嘆した。
世界的に評価されていることも納得の素晴らしい一冊だった。韓国文学を普段読まない人にも強くお勧めしたい。
★★★★★
*1:本作ではヨンヘに近づこうとする人物としてヨンヘの姉とその夫の2名がフォーカスされる。男性である夫がヨンヘの心に比較的接近することができたのは、彼が社会的には成功した男ではなく、男社会の競争から外れた人物だったことも関係しているのだろう(現に、バリバリのサラリーマンだったヨンヘの元夫は、ヨンヘを家政婦か何かとしか認識しておらず、全く誠実に向き合おうとしなかった。)。
他の誰でもない「私」自身の人生を歩むために。カン・ファギル『別の人』
このレビューは2021 韓国文学レビューコンテストの応募作品です。
この本が、そして韓国文学が、より多くの人に読まれることを祈って。
〇カン・ファギル『別の人』
2021年3月28日、エトセトラブックスより発売されて以降、SNSで大きな反響があった本作。
80年代生まれのフェミニスト作家たちを指す「ヤングフェミニスト」の筆頭であるカン・ファギルの初邦訳作品である。
30代前半の主人公ジナは、恋人から受けたデートDVを告発するが、逆にネットにて心無い誹謗中傷に遭ってしまう。無数の書き込みの中から、過去の出来事を思い出させるコメントを見つけたことをきっかけに、ジナはかつて暮らした町、アンジンへと向かう。
現在の恋人やデートDVを中心に物語が展開していくのかと思いきや、大学時代を過ごしたアンジンでの絡まった人間関係を徐々に紐解いていくうちに隠された出来事が明らかになっていくという、ミステリー仕様のストーリーとなっている。
本作は、デートDVをはじめとした性暴力を、異質な状況下で起きた特殊な事件として扱わず、残忍さを強調しすぎることもせず、日常のどこにでも潜むものとして描写している。
作中の女性たちは様々な形での抑圧を経験しているが、そのどれもが、あくまでもありふれたものとして描かれる。
読者は、最初は他者の物語として第三者的視点で物語を追っていく。しかし、主人公たちの状況や苦しみを知っていくうちに、いつの間にか自問せずにはいられなくなる。この状況、この感情、どこかで味わったことがないだろうかと。
そして、ふと気づくのだ。あの時のあの経験は、抑圧だったのだと。性暴力と呼んでいいものだったのだと。
そのことに気づいた瞬間、物語との距離はグッと縮まる。彼女たちの物語は、もう「別の人」の話ではない。彼女たちの苦しみは私の苦しみだったのだ。一ページめくるごとに、過去の記憶が、苦しみがどんどん自分の中から引き出されていく。ずっと胸にしまっていた過去の記憶を引きずり出し、真正面から向き合うことは大きな痛みを伴う。
自分自身の物語だからこそ、読み進めるごとに胸がえぐられ、ページをめくるのがためらわれるような、でも先に進みたいような、自分でも処理できない感情に心が揺さぶられる。
こんなにも、女性たちの生の声がまっすぐ心に届くような、胸が苦しくなるような作品に私は今まで出会ったことがあっただろうか。
日本での韓国フェミニズム文学の先駆けとなった『82年生まれ、キム・ジヨン』然り、韓国のフェミニスト作家の作品は、平易な言葉で静かに語りかけるようでいて、実は胸の奥深いところで言語化できずにくすぶっていた感情、もしくは自分でも気が付いていなかったような感情を見事に洗い出す。
「『最近、はじめて真っ当な時間を過ごしてる気がする』彼女が言った。(中略)彼女はこうも言った。今までいつも何かを選択してきたつもりだった。でも実際は、自分には鍵があると思い込んでいただけだった。自分が通ってきたドアだから自分で開けられる。本当はどのドアもあかない偽物の鍵を手にして、そう自分を慰めていただけだった。」
作中、ジナの旧友は心中を吐露する。
自分には選択権があり、主体的に選び取ってきたとずっと思い込んでいたが、実は他に選択肢がなく、自分の意思の介在しない「別の人」の人生を選ばされているだけだったことにふと気づくのだ。
女性たちは社会からの抑圧の下で必死に生き抜く中、自らを鼓舞するため、自分には選択の自由があったと、個々の選択を自分で主体的に選び取ったのだと自らを信じ込ませる。しかし、実際に欲しかったものを手にしてみると、自らの内部にがらんとした昏い空間があることに気づく。
これが本当に欲しかったものなのか?これ以外に選択肢はなかったのか?
フェミニズムという概念が広く受容され、強く独立した女性が先進的と持て囃される現代だからこそ、女性差別が社会に蔓延っていようとも何としてでも自分は強く生きねばならないと思い込んでしまう女性たち。
社会制度や風潮が全く変わろうとしない中、女性たちだけに新時代の女性像を押し付け、見せかけの自由を与え、少ないパイを女性同士で争わさせる。
持てるカードを駆使し、傷つきながらも這い上がり、欲しかったはずのものをようやく手にしたとき、実はそんなものを欲しいと思ったことなど一度もなかったのだと悟るのだ。
自らの過去に絶望し、一からやり直したくなっても、それでも否応なしに人生は前に進んでいく。
そんなとき、私たちに必要なのは、過去を捨て「別の人」になることでも、誰かに選ばされた「別の人」の人生を生きることでもない。
私たちが本当に必要としているのは、過去の記憶と向き合い、あるがままの自分を受け入れ、これからの選択一つひとつを自分の手でつかみ取っていくこと。「別の人」のもののように感じられた人生を、「私」の人生に変えていくことなのだ。
過去の痛みと真っ直ぐに向き合い、自分自身の人生を生き抜くことの大切さを教えてくれた本作を、私は一生大事に抱きしめていたい。
#review_k_literature
『恐怖のセンセイ』「男らしさ」のばかばかしさをシュールに描き出す
『恐怖のセンセイ』(原題:The Art of Self-Defense)は2019年に公開されたアメリカ合衆国のサスペンスコメディである。監督はライリー・スターンズ、主演はジェシー・アイゼンバーグが務めた。
wikipediaより(恐怖のセンセイ - Wikipedia)
日本では劇場公開されなかったマイナー作品。Netflixにて鑑賞。
うだつの上がらない会計士の主人公が、夜道で暴漢に襲われたことをきっかけに、空手道場に入門することを決意する。しかし、その道場の師範は、自らを「センセイ」と名乗る、とんでもない裏の顔を持つ人物だった…。という展開。
作中、いかにもひ弱な主人公がアメリカ的男らしさにどんどんと飲み込まれていくのだが、その男らしさが「強いもの」「誇るべきもの」ではなく、ばかばかしいものとして客観的に描写されているのが本作の特徴だ。
センセイが主人公に教える男らしさとは、
フランス語ではなくドイツ語を話せ。なぜなら強そうだから。
ダックスフントではなくシェパードを飼え。なぜなら強そうだから。
といった、センセイ自身の感覚に基づく概念に過ぎない。
しかし、強いと、男らしいと人から承認されることに渇望する主人公は、センセイに乗せられるまま、空虚な男らしさを身に付け、周囲に誇示する言動に走ってしまう。
本作が素晴らしいのは、男性監督作品でありながら、男らしさをばかばかしいと思いつつそれを求めずにはいられない男性の情けなさを克明に描いているという点にある。
元来、女性らしさの空虚さを皮肉的に描いた作品は多い。
例えば、『ミーン・ガールズ』では、男性やファッションをめぐって対立する女性たちの友情の薄っぺらさを描いているが、女性にフォーカスした作品だけでなくとも、容姿にばかり気を遣う女性や、恋のためだけに生きているような女性の姿は、映画・ドラマ等の中で嫌というほど目にしてきた。
一方で、伝統的な男らしさーー例えば勇敢さ、豪快さ等は、常に称賛に価するものとして描写されてきた。女性が行えば非難の嵐になりかねない言動も、男性が行えば男らしく格好いいものとして受け止められてきたのだ。
そのような状況下で、本作では男性性をどこまでも嘲笑の対象として描いており、そのばかばかしさを徹底的に浮き彫りにしている。
一方で、唯一登場する女性=アナ(イモージェン・プーツ)は、感情を抑えた論理的人物として描写される。彼女は長年道場に通い、誰よりも実力があるにもかかわらず、道場という男社会では決して評価されることがない(彼女の苦しみはチェス界という男社会での奮闘を描いた『クイーンズ・ギャンビット』に通じるものがある)。この点につき、現実社会でも「ガラスの天井」に苦しめられる数多の女性が存在することを作中にも反映している。
また、主人公やセンセイは空手の技術を力を誇示するためのものとして使っている一方、アナは日常では力を抑えており、本当に自己防衛として必要になったときのみ利用している。
空手の本来の意義から見れば、アナの力の使い方がもっとも「正しい」のは間違いないだろう。
最終的にアナを正当に評価することに一役買ったのが、作中で男根の象徴である銃であることは皮肉であるが、これは凝り固まった権利構造に風穴を開けるためには飛び道具の使用の必要もありうるという指摘なのだろうか。
ラストの解釈は分かれるところではあるが、全体を通じ、アメリカ的男らしさへのアンチテーゼとなっており、鑑賞後は胸がすくような思いでいっぱいになった。
有害な男らしさ(Toxic masculinity)という言葉が日本でもよく聞かれるようになったが、その業の深さを見事に描いた作品であった。
暴力的な作品、過剰なグロ描写のある作品は苦手だが、本作はブラックコメディ調に仕上げられていることもあり、あまり気にせず楽しめた。
美術作品としても、色使い、カット等が美しく目でも楽しめる作品。
★★★★☆