レベッカ・ソルニット『説教したがる男たち』『わたしたちが沈黙させられるいくつかの問い』

 

特に英語圏では普遍的な言葉として普及している「マンスプレイニング」という言葉。

この言葉の流行のきっかけを作り出したのが、レベッカ・ソルニットである。

ソルニットは「マンスプレイニング」(Mansplaining)という有名なかばん語が発明されるきっかけを作ったと言われている。ロサンゼルス・タイムズが運営するウェブサイト上で2008年4月に公開された彼女のエッセイMen Explain Things to Me[13]」(『説教したがる男たち』)の中では、パーティー会場で声を掛けてきた男性が彼女が著者であることを知らずに、彼女の最新作の内容について得意げに彼女に解説してきたという体験談が紹介されている。このエッセイの内容は分かっているようなことを上からの物言いで男性から解説された経験がこれまでにある多くの女性から共感を呼び、その後にオンライン上ではこのような男を指す「マンスプレイニング」という言葉が生まれ、急速に広まっていった 

 (レベッカ・ソルニット - Wikipedia

 

厳密にいうと、ソルニット自身が「マンスプレイニング」という言葉を生み出したわけではないのだが、「頼んでもいないのに男性から説明・解説される」という多くの女性が経験したことのある現象を指摘し、広く共感を呼ぶきっかけを作り出したのが彼女だ。

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彼女の著作『説教したがる男たち』、『わたしたちが沈黙させられるいくつかの問い』は、専修大学准教授であるハーン小路恭子さんにより翻訳されている。

先日、ハーンさん自身がこの2冊について語るオンラインブックトークイベント(KUNILABO主催)に参加したので、その感想をまとめたいと思う。

 

マンスプレイニングされても反射的に反論できないもどかしさ

マンスプされたとき、さらっとかっこいい反論ができず、苦笑でお茶を濁してしまう自分にイライラした経験がある女性は多いだろう。

特に日本の教育では、協調性が重んじられ、反論・反抗の訓練をする機会が乏しく、いざという時に脊髄反射的に反論する力を養うことは難しい。

言わずもがな、おしとやかであることを求められる女性なら尚更。

 

不快な思いをしたとしても、その場の雰囲気を壊さないためにグッと堪えてしまうことも。

だが、そのように日々男性に忖度し、気持ちいいい思いをさせ続けてしまうと、男性は必ず図に乗り、例のメダル噛みつき市長のような恐ろしい行動に出ることになる。

 

自分が努力しやっとの思いで掴んだメダルを、無許可で、しかも(小汚い)おじさんに嚙まれたら…。

この他にも異常な言動を繰り返していたという現名古屋市長であるが、周囲の人間が誰も指摘せず、好き放題させ続けていた結果がこの事件だ。

 

このような大惨事を防ぐために自分にできることとしては、やはりマンスプおじさんが現れた際に毅然として対応することだろう。

そもそも反論したとしてまともに聞いてもらえない可能性、または反論する価値すらない相手と対峙しなければならない可能性もあるが。

自分の尊厳だけでなく、他の女性を救うことになるとも信じて、不快感や怒りはためらわずに表現できるようになりたいと思う。

 

#metoo は「後出しジャンケン」?

#metooで女性が勇気を出して告発した際、それが実際の出来事から時間が経ってから行われることも多く、「後出しジャンケン」と言われてしまうことがあるそうだ。

女性たちは、日々説教され沈黙させられてしまっていることに慣れている分、自分がされたことが告発に値すると気付くまで時間がかかってしまう。

 

特に、性的暴行の被害がスティグマ化されてしまうことが多いこの世の中では、たとえ暴行を受けたとしても、自らを被害者と認めたくないという心理が働いてもおかしくはない。

 

多くの女性がmetooと声を上げ始めたことをきっかけに、ようやく自らの過去と対話し、過去の出来事を改めて捉え直すことができるようになった人も多いことだろう。

 

NY州知事のクオモ氏がセクハラ疑惑で辞任したことは記憶に新しいが、どんなに素晴らしい活躍をしている人物であっても、その活躍と、セクハラをしたという事実は全く別の次元の話である。

相手がどんなに社会的地位が高くても、臆せずに告発をすること。

告発を受けた者は潔く表舞台を去ること。

 

この流れが、性的暴行の加害者がしれっと芸能界に戻ることが多く、政治家に至っては告発を受けたとして辞任せずむしろ被害者を非難するこのヘルジャパンでも定着することを切実に願う。

 

 痴漢されたら「自分のせい」?

著作の中で公共空間について触れることが多いソルニットだが、痴漢についても公共空間と結びつけて語っている。

公共空間で痴漢されたら、悪いのはその場所にいた被害者ではなく、被害を発生させた空間そのもの。

同じように、障害者が自由に移動できない空間があれば、悪いのはその空間自体。

 

女性が身の安全を確保するために歩くことができない空間・時間帯があれば、それは自由に移動する権利の侵害であるし、内面の自由にもかかわってくる。

 歩くことについては、『説教したがる男たち』でもバージニア・ウルフを絡めながら触れていたが、別の著書『ウォークス 歩くことの精神史』でも詳細に語っている。

 

 女が読むべきでない八十冊

数年前、 ある男性向け雑誌が、「すべての男が読むべきベスト八十冊」と題したリストを掲げた。

なんと、そこに上がっている七十九冊は男性作家の作品だったという。

女になるのは大変だが男になるのはもっと大変らしいとつくづく感じさせられる。このジェンダーときたら常に男らしさの身ぶりを通して擁護され、実演され続けないといけないのだから。リストを見ていて不意に思った。道理でこんなに大量殺人があるわけだ。このリストを見ていると、男であることを極限まで突き詰めた場合、大量殺人こそがそれをもっとも顕著に示す表現なのだとわかる。

 (作中より引用)

 

これを見て、標準的な男の世界には女は存在しないのだということに改めて驚かされた。

小説を読むことの醍醐味の一つは、通常生きていては味わえない経験を、自らと異なる視点から楽しめることだ。

男性にとって、女性作家の作品を読み、女性の視点で物事を見る経験をすることは、人口の残り50%をより良く理解することとなるまたとない機会になりうるだろう。

しかし、実際には「男性が男性らしくあるために読むべき本」の中に女性やゲイの作家の作品はなく、逆に伝統的男らしさの強化につながるような作品ばかりがリストアップされているのだ。

 

シス男性から見えるデフォルトの世界に女はいないのだという事実に、既に知っていたものの、改めて頭を殴られたような気分になった。

 

また、『説教したがる男たち』の帯には「殺人犯の90%は男性」という衝撃的な文言が大きく書かれているが、その背景には、悲しいかな、男らしさの誇示の手段としての暴力という定式が今だ強くあるのだと感じた。

 

なお、このリストは現在では「すべての人が読むべき80冊」と改題され、選書も大幅にアップデートされている。

www.esquire.com

 

映画におけるジェンダー不均衡

作中で映画における女性活躍の現状に関する衝撃的な章があった。

内容を要約すると以下の通りだ。

 

「2010年にジーナ・デイヴィス・メディアにおけるジェンダー研究所は、家族向けハリウッド映画についても3年間に渉る統計について報じた。

1565人のクリエイターのうち、女性の監督は7%のみ、脚本家は13%で、プロデューサーは20%だった。

2014年に同研究所が世界中で公開された大作映画上位十本について新たに調査を行ったところ、台詞と名前がある登場人物の三分の二は男性であり、「少女や女性が主役か、他のメインの登場人物とともに終始物語に登場する」のは十作品のうち四分の一以下だったという。

 

 しかも、スクリーンに女性が登場する時でも台詞があるとは限らない。

ベクデル・テスト(映画には二人以上の女性が登場して、男性以外のトピックについてお互いに会話しなければならない)というバカみたいに低い基準すら多くの映画は満たしていないのだ。

 

大半の映画は男性主人公が男性の登場人物と会話し、女性は登場すらしないか、登場しても大した台詞が与えられないわけだが、こうした映画は少年映画とか男性映画とは呼ばれず、私たち全員のための映画ということになっている。

女性の登場人物に多くの時間を割く映画は、いつだって少女映画とか女性映画とか呼ばれるのに。

男性は共感を広げて別のジェンダーに同一化することを期待されてはいないのだ。

支配的な人間には、自分は見えても他者は見えない。特権が想像力を制限したり妨害したりするからだ。」

 

このように客観的データで示されると、あまりの不均衡具合に愕然とする。

女性は、幼い頃から男性映画、もとい家族向け映画を観て男性中心の価値観を身に付け育っていく一方、男性は見ようと意識しなければ女性が主演の映画を目にすることもないのだ。

 

上記の小説についても同じことだが、共感を広げる必要がないこと、自分の見えている世界だけで生きていくことができることも特権の一つなのだ。

 

女性の作品を読んだことも観たこともないような男性が制作した作品が、女性蔑視的な表現を含んでいたとしても全くおかしくはない。

 

私自身、以前は家族向け映画を無批判に鑑賞し楽しんでいたため、無意識のうちに女性蔑視的視点を内面化してしまったように思う。

以前は好きだった映画をフェミニズム的批評の視点を踏まえ再度観てみると、あまりの無配慮に辟易することも少なくない。

ここ一年ほどは、映画館に足を運ぶ際は極力女性監督作品または女性が主演の映画を観るようにしているが、特に女性監督作品を観ている際の絶対的安心感は何物にも代えがたい。

 

かの有名な「ディナーパーティー」の作者であるジュディ・シカゴも言っていたが、資本主義社会において金の使い道は投票と同じである以上、自分の稼ぎはできるだけ女性に還元するという意味でも、今後も女性監督作品に対しては惜しまずに支援を示していきたいと思う。

 

 

と、以上長々と語ってしまったが、今回取り上げた2冊はどちらも美しい文章でとてもよくまとまっている大変な良著である。

特に『説教したがる男たち』は、いわゆるフェミニズム理論についての章から、ソルニットの文学・芸術への敬愛が光る章までバラエティ広く議論が展開されており、フェミニズム入門書としてもお勧めしたい一冊だ。

 

個人的にはシンプルかつインパクトのある表紙も大好きで、これを電車で読んでいると周囲を威嚇できているような、そんな気分になれるのもお勧めポイント(なお、そのせいで目をつけられ殺されないよう気を付けることは忘れてはならないが)。

 

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