#小田急フェミサイドに抗議します――社会に蔓延る女性蔑視を直視せよ
2021年8月6日午後8時半ごろ、世田谷区の成城学園前駅付近の小田急線の車内で男が刃物を振り回し、20歳の女性大学生を含む10人が刃物で切り付けられるなどして重軽傷を負うという痛ましい事件が発生した。
事件から約一か月経った今、改めてこの事件の背景・影響を振り返りたいと思う。
幸せそうな女性は殺される?
最初の報道を耳にした瞬間、全身を恐怖とやるせなさが襲った。
女性というだけで、ただ電車に乗っているだけで7箇所も身体を刺される。
ただでさえ痴漢に気を付ける必要がある電車という空間で、まさか殺意まで警戒しないといけないだなんて。
逃げ場のないの車内でナイフを向けられようものなら、もはや自衛は不可能だ。
この事件の被害者は、「女性であれば誰でもよかった」と供述している。ということは、自分が刺されなかったのはたまたま、幸運だったからに過ぎない。
事件以降、電車に乗るたび、「自分はここで刺されるのかもしれない」とうっすらとした不安を抱く。
犯人の過去、言動が明らかになるにつれ、この事件が典型的なフェミサイドだったと確信を強める。
「電車内を見回して、勝ち組っぽい女性を見つけ狙った」「サークルなどで小バカにする態度を取られたり、出会い系サイトで知り合ってデートしたら途中で断られたり」「6年くらい前から、幸せそうな女性を見ると、殺してやりたいという気持ちが芽生えていた」
事件当日、万引きを女性店員により通報されたことが犯行の引き金になったという。
殺意を向けられないために、女性は常に愛想を振りまかなければならないのか。
目の前で万引きが行われていても、指摘せず黙っていなければならないのか。
男性に都合の悪い言動は一切とらず、常に笑顔で男性の接待をし、一方で幸せそうに見えないよう注意していれば、殺されずに済むのかもしれない。
ただ、そんな人生、何が楽しいのだろう。
女性は、男性に仕えるために存在するのではない。
女性は、男性を気持ちよくさせるために存在するのではない。
女性は、男性のためのお飾りではない。
この事件の犯人のように、完全に女性を見下している、ミソジニーにあふれた男性は世の中に腐るほど存在する。
女性が好きで、構ってほしくて、でも構ってもらえなくて、次第に女性への憎悪を抱くようになるという恐ろしく自己中心的な思考プロセス。
彼らが好きな女性はあくまで「彼らを必要としてくれる女性、彼らに都合のいい女性」である。
自立した女性、ほかの男と番っている女性など、彼らを必要としない女性に対しては、「女のくせに偉そう」と瞬時に憎悪を向ける。
彼らにとっては女など下位の階級の人間に過ぎないのだから。
江南駅殺人事件――「理想のフェミニスト」とは
日本は主要国の中で圧倒的に殺人事件の発生率が低い一方、香港、韓国と並び、女性を標的にした殺人事件の割合は高いという。
周辺諸国での同様の事件としては、韓国で起きた江南駅殺人事件が挙げられる。
2016年5月17日未明、ソウル江南駅付近の商店街公用トイレで見知らぬ男に凶器で刺された23歳の女性が死亡した。
その報道を受け、あるネットユーザーが「女性暴力・殺害には社会が答えなければならない」「江南駅10番出口に一輪の菊の花とメモ1枚を書き込み被害者を追悼しよう」とTwitter上で呼びかけたところ、数日間で江南駅10番出口にはポストイットが数万枚貼り付けられ、大きなムーブメントとなった。
そして、この事件をきっかけに、自らをフェミニストと考える女性が増え、盗撮・堕胎罪等に関してのデモ運動がより積極的に展開されるようになったという。
日本でも、小田急線でのフェミサイド報道後、江南駅殺人事件に呼応する形で一部のフェミニストが駅にポストイットを一つ二つ貼り、その写真をTwitterに掲載した。
すると、なんとたったそれだけで、男性ユーザー中心に非難の嵐が巻き起こった…。
「理性的な」男性の皆さまにとっては、公共の場に個人が「落書き」のようなものを貼るのは納得がいかないのだろう。
女性が「感情的」に抗議することは「周囲への迷惑を考えない」「独善的な」「フェミ」らしいと受け取られたのかもしれない。
実のところは、加害者が男だったことから「男」という性別そのものを非難されているように思ったのか、そもそも女性同士が連帯すること自体が怖いのか、または「フェミ」の行動と知ったとたん脊髄反射的に反論している…いったところだろう。
なんにせよ、男性たちは常に正しく、女性たちは彼らの許可する方法でしか声を上げられないというわけだ。
一方で片腹痛いのが、特にTwitter上で聞かれる、「○○の問題にはフェミは声をあげないじゃないか」という発言。
女性たちがある問題に声を上げても不満、声を上げなかったらそれはそれで不満。
一定数の男性が持つ「フェミ」への強烈な嫌悪感は、もはや手の付けようがないように思える。
これはフェミサイド?
前途の通り、事件当日、小田急線での事件の報道を目にしたとき、すぐに「これはフェミサイドだ」と直感した。
報道後、Twitter上でもフェミニストを中心として「#StopFemicides」等のハッシュタグとともに抗議文が多数ツイートされ、フェミサイドに断固拒否する姿勢を表明する女性が相次いだ。
また、新宿駅前で実際にデモが行われるなど、フェミサイドに対してNoの声を上げる活動が展開された。
一方で、インターネット上では、この事件はフェミサイドではないと反論する男性(または男性的価値観を内在化した女性)の声が相次いでいる。
被害者女性が(救助した女性の話では、刺された女性はどこから出血しているかもわからないほど血塗れで、息も絶え絶えだったというが)「殺されていない」から、加害者が「誰でもよかったから殺したかった」と言っている(またはその発言が大きく取り上げられている)から、これはフェミサイドではないのだという。
これらの意見を目にするたび、もう正直なところ反論する気すら起きず、被害者女性が感じた、そして女性が日々感じざるを得ない恐怖を理解する気すらないのだと、絶望感を覚えてしまう。
ただ、どうやらこのような反応は万国共通らしく、前述した韓国でも江南駅女性殺人事件の発生後、この事件が「女性嫌悪犯罪なのか」の議論が巻き起こったという。
韓国では警察・検察が事件発生直後から「精神疾患者の通り魔犯罪であり、女性嫌悪犯罪ではない」という立場を維持し、裁判所も「容疑者が女性を嫌悪したというより、男性を恐れ、相対的に弱者である女性を犯行の対象にした」という趣旨の判決を下した。
すべての人が安心・安全に暮らせる社会を実現するために
この事件後、私も含め、女性の多くが電車に乗るたびに恐怖を感じている。
今後、女性たちが公共空間における心身の安心を取り戻すためには、何が必要なのだろうか。
今求められているのは、小田急線殺傷事件は、数多くの女性対象犯罪の一つであり、そのような犯罪の背景には構造的な性差別や女性に対する蔑視やからかいなど「女性嫌悪」が存在することを認めることだ。
当然、国レベルで女性対象犯罪予防のため対策を講じることは必須であるが、まずは社会の一人ひとりが、社会中に女性嫌悪が蔓延しているという現状を認識すること。
そして、自らの中に存在する女性嫌悪と向き合い、一人ひとりの女性を、人権を持った一人の人間として扱うこと。
現状認識なしには、問題の可視化すらできない。
社会の構成員一人ひとりが自らの持つ問題を認識し、他者への思いやりの心を持つことができるようになるまで――。
長く険しい道のりではあるが、女性だけでなく、すべてのマイノリティが安心・安全に暮らすことができるような社会を目指し、個人レベルで少しずつ意識改革を行っていければと思う。
最後に、被害に遭った方々、犯行を目撃された方々が心身ともに回復できることを心の底から願っています。
チョ・ナムジュ『サハマンション』と堕胎をめぐる現状
近未来、超格差社会「タウン」の最下層に位置する人々が住む「サハマンション」。30年前の「蝶々暴動」とは何か? ディストピア都市国家最下層の人々が住む場所で、相互扶助を夢見る姿を描く。
韓国語版136万部、日本版22万部突破のベストセラー、
『82年生まれ、キム・ジヨン』著者の最新長編小説。超格差社会「タウン」最下層に位置する人々が住む「サハマンション」とは?
30年前の「蝶々暴動」とは?
ディストピアの底辺で助け合い、ユートピアを模索することは可能か?
(サハマンションの通販/チョ・ナムジュ/斎藤 真理子 - 小説:honto本の通販ストア)
『82年生まれ、キム・ジヨン』(2018)に大ハマりしたことでチョ・ナムジュを知った私だったが、2019年に書かれた『サハマンション』を読み、その作風の違いに驚かされた。
キム・ジヨンでは現実世界をベースにした客観的かつ淡々とした語り口が印象的だったが、サハマンションではディストピア的近未来を舞台に、暴力的ともいえるような感覚的な描写で物語が展開していく。
『サハマンション』は、企業により運営される奇妙な都市国家「タウン」を舞台としている。「タウン」は、選ばれし住民であるL、一時的な在留許可を得たL2、そしてLでもL2でもない、何者でもない「サハ」と呼ばれる階層によって構成された厳格な格差社会だ。
この構図は、資本主義社会において、出自が確かで、健全な心身と能力とを兼ね備えた人々のみが舞台に立つことができ、成功していく一方、密入国者や、老人、子供、女性、障害者等のマイノリティはそもそも同じ舞台に立つことすらできず、文字通り社会から周縁化されてしまう現実をそのまま反映している。
正式な住民たちが高度な技術を活用した仕事に携わる一方、いわゆるケア労働は立場の不安定なサハたちが中心となって担う。
この点、現代の資本主義社会における格差の問題や、ケア労働の問題をまっすぐに指摘している作品だと感じた。
作風としては、一人の視点から事実を淡々と語った作品である『キム・ジヨン』に比べ、『サハマンション』では各部屋の住人がそれぞれの物語を語ることで、少しずつ社会の全体像や各登場人物の過去がわかるように描かれており、物語の進行を追うのが多少難解な作品といえるだろう(そのせいか冒頭で挙げたhontoのレビューは振るわないようだった。)。
作中、妊娠した女性が中絶を希望したものの、中絶は限定的にしか許されていなかったため、資格を持たない者が秘密裏に中絶の措置を行ったところ、麻酔の量が多すぎたためにその女性が命を落としてしまうという場面がある。
女性が安全に中絶する権利が保障されていなかったために起こった悲劇であり、措置を行った女性の心にも大きな影を落とすことになってしまったと描写されているが、実際の韓国社会においても、堕胎廃止問題は韓国フェミニズムの大きな課題として議論され続けてきたという。
韓国では日本同様、「堕胎罪」を刑法で定める一方で、母子保健法(日本の母体保護法にあたる)によって、一定の条件を満たせばこの罪は適用外となり、医師の判断で人工妊娠中絶を行えることになっている。そのため、実際には「堕胎罪」で処罰されることはほとんどないが、女性の権利の侵害だとして問題視されてきた。
韓国では2019年4月、憲法裁判所が「堕胎罪」が憲法に不合致であるとの決定を下したが、政府は、代替となる立法にはいまだ消極的。宣言文では、戸主制と同じく「堕胎罪」もまた、女性を抑圧し差別する象徴的な制度であることを明らかに認識しなければならないと訴えている。
(「堕胎罪を廃止せよ」韓国で女性100人が中絶の合法化を促す共同宣言を発表 | ハフポスト)
なお、韓国は配偶者同意は不要とのこと。ヘルジャパン…。
日本では、明治時代(1907年)から続く堕胎罪(刑法212−216条)によって堕胎は禁止されていますが、母体保護法によって一定の条件を満たせば人工妊娠中絶が認められており、2020年は14万5340件でした。
人工妊娠中絶が認められる条件とは、①身体的・経済的理由により母体の健康を損なう場合 ②暴行や脅迫によるレイプによって妊娠した場合で、①の場合、原則として配偶者の同意が必要となっています。また、人工妊娠中絶ができる期間は妊娠22週未満です。
世界203か国のうち、人工妊娠中絶にあたって配偶者の同意を法的に規定している国・地域は日本を含む、台湾、インドネシア、トルコ、サウジアラビア、シリア、イエメン、クウェート、モロッコ、アラブ首長国連邦、赤道ギニア共和国の11か国・地域のみです。
2021年3月、厚生労働省はこの配偶者の同意を必要とする規定について、ドメスティック・バイオレンス(DV)などで婚姻関係が事実上破綻し、同意を得ることが困難な場合に限って不要とする方針を示し、日本産婦人科医会より、各都道府県の産婦人科医会に通知されました。
(中絶に「配偶者同意」が必要なのは日本を含めて11か国・地域のみ(世界203か国中))
本来女性の心身を守るためにあるはずの「日本産婦人科医会」という名のオッサン集団が、アフターピルの薬局での取扱いに頑として反対していることはお笑い草であるが(実際、本気で調べると怒り狂ってしまいそうなのであまり調べすぎないようにしている。)。
女性の身体、特に妊娠出産については、いまだに世界各国で様々な理由から規制が行われている。
テキサス州での中絶禁止に関する新たな法案の施行は記憶に新しい(というか未だに信じがたい)が、女性の身体のことは女性が一番わかっているのだし、私たち自身の権利に関わる問題なのだから、女性たちで決めさせてもらえないものだろうか…。
そしてこのような危機的状況においても声を挙げずひたすら沈黙している男たちは何なのか…。
(テキサス州の件に関してはビリー・アイリッシュも激怒していた。)
正直に言えば、全く前進しないどころか後退しているようにも見える女性の権利の現状を目の当たりにすると、一個人が何をしても徒労に終わるのではないかというあきらめの気持ちも生まれる。
しかし、落ち込みそうになったときは、韓国の女性たちをはじめ、世界中の女性たちが根気強くデモ運動を行い、少しずつ権利を勝ち取った結果今があるのだということを思い出し、自分を鼓舞したい。
と、話が大幅にずれてしまったが…、近年、日本でも村田紗耶香を筆頭に田中兆子、古谷田奈月など多数の女性作家がジェンダー・ディストピアSF作品を発表しているが、本作もまさにフェミニズム的文脈におけるディストピア小説であるといえる。
自身のキャリアの中で様々な題材・作風にチャレンジしてきたチョ・ナムジュ、これからの作品も楽しみに読みたいと思う。
★★★☆☆
歴史修正主義の蔓延に終止符を『否定と肯定』
ミック・ジャクソン監督作品。ホロコーストの真実を探求するユダヤ人の女性歴史学者デボラ・リップシュタットと、イギリスの歴史作家で、ホロコーストはなかったとする否定論者のデイビット・アーヴィングが、2000年ロンドン法廷で対決した実話に基づく作品。
ユダヤ人女性であり、学者にしては若く、しかも美しいリップシュタット。
そんな彼女を見下したようなアーヴィングの視線は、あまりにも既視感に溢れていた。
作中、判決が出た後の記者会見でリップシュタットが述べたように、
明らかな歴史修正主義、否定論に対しては、そもそもまともに取り合わず、毅然とした態度を取ることが重要だ。
ホロコースト否定論者の姿は、日本における従軍「慰安婦」問題や南京事件の否定論者の姿と重なる。
昨今、日本のメディアは「中立」の立場を装い、どのような問題についても両論併記的な表現にとどまることが多い。
明らかに間違っていることに対し、はっきりと否定することが今求められているのではないか。
また、多くの人が指摘しているが、「否定」することが要の本作の邦題が「否定と肯定」と両論併記になってしまっているのは本末転倒…。
イギリスの司法制度にはびっくりだが、本作は法廷ドラマとしても面白い作品だと思う。
★★★☆☆
レベッカ・ソルニット『説教したがる男たち』『わたしたちが沈黙させられるいくつかの問い』
特に英語圏では普遍的な言葉として普及している「マンスプレイニング」という言葉。
この言葉の流行のきっかけを作り出したのが、レベッカ・ソルニットである。
ソルニットは「マンスプレイニング」(Mansplaining)という有名なかばん語が発明されるきっかけを作ったと言われている。ロサンゼルス・タイムズが運営するウェブサイト上で2008年4月に公開された彼女のエッセイ「Men Explain Things to Me[13]」(『説教したがる男たち』)の中では、パーティー会場で声を掛けてきた男性が彼女が著者であることを知らずに、彼女の最新作の内容について得意げに彼女に解説してきたという体験談が紹介されている。このエッセイの内容は分かっているようなことを上からの物言いで男性から解説された経験がこれまでにある多くの女性から共感を呼び、その後にオンライン上ではこのような男を指す「マンスプレイニング」という言葉が生まれ、急速に広まっていった
厳密にいうと、ソルニット自身が「マンスプレイニング」という言葉を生み出したわけではないのだが、「頼んでもいないのに男性から説明・解説される」という多くの女性が経験したことのある現象を指摘し、広く共感を呼ぶきっかけを作り出したのが彼女だ。
彼女の著作『説教したがる男たち』、『わたしたちが沈黙させられるいくつかの問い』は、専修大学准教授であるハーン小路恭子さんにより翻訳されている。
先日、ハーンさん自身がこの2冊について語るオンラインブックトークイベント(KUNILABO主催)に参加したので、その感想をまとめたいと思う。
マンスプレイニングされても反射的に反論できないもどかしさ
マンスプされたとき、さらっとかっこいい反論ができず、苦笑でお茶を濁してしまう自分にイライラした経験がある女性は多いだろう。
特に日本の教育では、協調性が重んじられ、反論・反抗の訓練をする機会が乏しく、いざという時に脊髄反射的に反論する力を養うことは難しい。
言わずもがな、おしとやかであることを求められる女性なら尚更。
不快な思いをしたとしても、その場の雰囲気を壊さないためにグッと堪えてしまうことも。
だが、そのように日々男性に忖度し、気持ちいいい思いをさせ続けてしまうと、男性は必ず図に乗り、例のメダル噛みつき市長のような恐ろしい行動に出ることになる。
自分が努力しやっとの思いで掴んだメダルを、無許可で、しかも(小汚い)おじさんに嚙まれたら…。
この他にも異常な言動を繰り返していたという現名古屋市長であるが、周囲の人間が誰も指摘せず、好き放題させ続けていた結果がこの事件だ。
このような大惨事を防ぐために自分にできることとしては、やはりマンスプおじさんが現れた際に毅然として対応することだろう。
そもそも反論したとしてまともに聞いてもらえない可能性、または反論する価値すらない相手と対峙しなければならない可能性もあるが。
自分の尊厳だけでなく、他の女性を救うことになるとも信じて、不快感や怒りはためらわずに表現できるようになりたいと思う。
#metoo は「後出しジャンケン」?
#metooで女性が勇気を出して告発した際、それが実際の出来事から時間が経ってから行われることも多く、「後出しジャンケン」と言われてしまうことがあるそうだ。
女性たちは、日々説教され沈黙させられてしまっていることに慣れている分、自分がされたことが告発に値すると気付くまで時間がかかってしまう。
特に、性的暴行の被害がスティグマ化されてしまうことが多いこの世の中では、たとえ暴行を受けたとしても、自らを被害者と認めたくないという心理が働いてもおかしくはない。
多くの女性がmetooと声を上げ始めたことをきっかけに、ようやく自らの過去と対話し、過去の出来事を改めて捉え直すことができるようになった人も多いことだろう。
NY州知事のクオモ氏がセクハラ疑惑で辞任したことは記憶に新しいが、どんなに素晴らしい活躍をしている人物であっても、その活躍と、セクハラをしたという事実は全く別の次元の話である。
相手がどんなに社会的地位が高くても、臆せずに告発をすること。
告発を受けた者は潔く表舞台を去ること。
この流れが、性的暴行の加害者がしれっと芸能界に戻ることが多く、政治家に至っては告発を受けたとして辞任せずむしろ被害者を非難するこのヘルジャパンでも定着することを切実に願う。
痴漢されたら「自分のせい」?
著作の中で公共空間について触れることが多いソルニットだが、痴漢についても公共空間と結びつけて語っている。
公共空間で痴漢されたら、悪いのはその場所にいた被害者ではなく、被害を発生させた空間そのもの。
同じように、障害者が自由に移動できない空間があれば、悪いのはその空間自体。
女性が身の安全を確保するために歩くことができない空間・時間帯があれば、それは自由に移動する権利の侵害であるし、内面の自由にもかかわってくる。
歩くことについては、『説教したがる男たち』でもバージニア・ウルフを絡めながら触れていたが、別の著書『ウォークス 歩くことの精神史』でも詳細に語っている。
女が読むべきでない八十冊
数年前、 ある男性向け雑誌が、「すべての男が読むべきベスト八十冊」と題したリストを掲げた。
なんと、そこに上がっている七十九冊は男性作家の作品だったという。
女になるのは大変だが男になるのはもっと大変らしいとつくづく感じさせられる。このジェンダーときたら常に男らしさの身ぶりを通して擁護され、実演され続けないといけないのだから。リストを見ていて不意に思った。道理でこんなに大量殺人があるわけだ。このリストを見ていると、男であることを極限まで突き詰めた場合、大量殺人こそがそれをもっとも顕著に示す表現なのだとわかる。
(作中より引用)
これを見て、標準的な男の世界には女は存在しないのだということに改めて驚かされた。
小説を読むことの醍醐味の一つは、通常生きていては味わえない経験を、自らと異なる視点から楽しめることだ。
男性にとって、女性作家の作品を読み、女性の視点で物事を見る経験をすることは、人口の残り50%をより良く理解することとなるまたとない機会になりうるだろう。
しかし、実際には「男性が男性らしくあるために読むべき本」の中に女性やゲイの作家の作品はなく、逆に伝統的男らしさの強化につながるような作品ばかりがリストアップされているのだ。
シス男性から見えるデフォルトの世界に女はいないのだという事実に、既に知っていたものの、改めて頭を殴られたような気分になった。
また、『説教したがる男たち』の帯には「殺人犯の90%は男性」という衝撃的な文言が大きく書かれているが、その背景には、悲しいかな、男らしさの誇示の手段としての暴力という定式が今だ強くあるのだと感じた。
なお、このリストは現在では「すべての人が読むべき80冊」と改題され、選書も大幅にアップデートされている。
映画におけるジェンダー不均衡
作中で映画における女性活躍の現状に関する衝撃的な章があった。
内容を要約すると以下の通りだ。
「2010年にジーナ・デイヴィス・メディアにおけるジェンダー研究所は、家族向けハリウッド映画についても3年間に渉る統計について報じた。
1565人のクリエイターのうち、女性の監督は7%のみ、脚本家は13%で、プロデューサーは20%だった。
2014年に同研究所が世界中で公開された大作映画上位十本について新たに調査を行ったところ、台詞と名前がある登場人物の三分の二は男性であり、「少女や女性が主役か、他のメインの登場人物とともに終始物語に登場する」のは十作品のうち四分の一以下だったという。
しかも、スクリーンに女性が登場する時でも台詞があるとは限らない。
ベクデル・テスト(映画には二人以上の女性が登場して、男性以外のトピックについてお互いに会話しなければならない)というバカみたいに低い基準すら多くの映画は満たしていないのだ。
大半の映画は男性主人公が男性の登場人物と会話し、女性は登場すらしないか、登場しても大した台詞が与えられないわけだが、こうした映画は少年映画とか男性映画とは呼ばれず、私たち全員のための映画ということになっている。
女性の登場人物に多くの時間を割く映画は、いつだって少女映画とか女性映画とか呼ばれるのに。
男性は共感を広げて別のジェンダーに同一化することを期待されてはいないのだ。
支配的な人間には、自分は見えても他者は見えない。特権が想像力を制限したり妨害したりするからだ。」
このように客観的データで示されると、あまりの不均衡具合に愕然とする。
女性は、幼い頃から男性映画、もとい家族向け映画を観て男性中心の価値観を身に付け育っていく一方、男性は見ようと意識しなければ女性が主演の映画を目にすることもないのだ。
上記の小説についても同じことだが、共感を広げる必要がないこと、自分の見えている世界だけで生きていくことができることも特権の一つなのだ。
女性の作品を読んだことも観たこともないような男性が制作した作品が、女性蔑視的な表現を含んでいたとしても全くおかしくはない。
私自身、以前は家族向け映画を無批判に鑑賞し楽しんでいたため、無意識のうちに女性蔑視的視点を内面化してしまったように思う。
以前は好きだった映画をフェミニズム的批評の視点を踏まえ再度観てみると、あまりの無配慮に辟易することも少なくない。
ここ一年ほどは、映画館に足を運ぶ際は極力女性監督作品または女性が主演の映画を観るようにしているが、特に女性監督作品を観ている際の絶対的安心感は何物にも代えがたい。
かの有名な「ディナーパーティー」の作者であるジュディ・シカゴも言っていたが、資本主義社会において金の使い道は投票と同じである以上、自分の稼ぎはできるだけ女性に還元するという意味でも、今後も女性監督作品に対しては惜しまずに支援を示していきたいと思う。
と、以上長々と語ってしまったが、今回取り上げた2冊はどちらも美しい文章でとてもよくまとまっている大変な良著である。
特に『説教したがる男たち』は、いわゆるフェミニズム理論についての章から、ソルニットの文学・芸術への敬愛が光る章までバラエティ広く議論が展開されており、フェミニズム入門書としてもお勧めしたい一冊だ。
個人的にはシンプルかつインパクトのある表紙も大好きで、これを電車で読んでいると周囲を威嚇できているような、そんな気分になれるのもお勧めポイント(なお、そのせいで目をつけられ殺されないよう気を付けることは忘れてはならないが)。
★★★★★
「良妻賢母」神話を歌って吹き飛ばす『5月の花嫁学校』
フランスを代表するオスカー女優ジュリエット・ビノシュ主演、「ルージュの手紙」のマルタン・プロボ監督によるコメディ。1967年。フランスのアルザス地方にある花嫁学校、ヴァン・デル・ベック家政学校には今年も18人の少女たちが入学してきた。経営者である夫の突然の死をきっかけに、校長のポーレットは学校が破産寸前であることを知る。ポートレットが、なんとか窮地から抜け出そうと奔走する中、パリで5月革命が勃発する。抗議運動がフランス全土に広がってゆくのを目の当たりにしたポーレットや生徒たちは、これまでの自分たちの考えに疑問を抱き始め、ある行動に出ることを決意する。ビノシュがポーレット役を演じるほか、「セラフィーヌの庭」のヨランド・モロー、「カミーユ、恋はふたたび」のノエミ・ルボフスキーらが顔をそろえる。
前評判を調べてみるとどうやらミュージカル仕立てになっており、脚本に若干の唐突感があるという感想を持った人が多いようで、ミュージカルが苦手な自分は警戒しつつ鑑賞に臨んだ本作。
結果的には、初めてミュージカル的演出の必然性を理解することができた大変すばらしい作品だった。
身寄りも財もなく他に選択肢がない状況で年上男性と結婚し、何十年も良き妻として仕え、それが正しいと信じ教育もしてきた主人公・ポートレット。
突然夫が死んだことで、実は何の権利も与えられずーー帳簿すら見られずーー自分が抑圧されていたことに気づく。
そして、そのような役割に収まることを良しとして家政学校の娘たちに押し付けていたことも気づき、学校の運営、ひいては自分自身の生き方について考え直し始める。
まず、当然ながら、主演がとても良かった。上手いし感情表現豊かだし、何より終始楽しそうなのが見ているこちらも幸せな気分になれ良かった。
また、中年の女性が主演となることはそう多くはないので、そういった意味でも見ていて気持ちのいい作品だった。
今までは、自分の中でミュージカル=突然歌い出すもの、意味がわからないものという認識で苦手だったのだが、今回は「良い妻」からの精神的解放+都市に出る高揚感+国全体の革命ムードの中、歌い出さないほうがおかしいくらいの必然性があった。
主人公ポートレットはもちろんのこと、それまで沈んだ顔をしていた生徒たちもがいきいきとした表情で全身を使って感情表現し、自己を解放する姿に、思わず涙がこぼれた。
メッセージとしては真っ直ぐすぎるくらい真っ直ぐな映画だったが、そもそも女性が出て意味のある会話をする映画自体があり得ないくらい少ないのだから、たまにはこういう映画があってもいいと思う。
また、ビジュアルについては、服装や家具は本当に可愛らしかったし、印象的なカットもたくさんあり、映画自体が芸術作品として美しい仕上がりだった。
疲れた時、落ち込んだ時に繰り返し観たい作品。確実に今年のお気に入りの中の一つ。
★★★★★
おっぱいからの卒業『乳房のくにで』深沢潮
21世紀目前、福美は困窮していた。抱えた娘の父親は行方知れず、頼る実家もなく、無職。ただ、母乳だけはあまるほど出続ける。それに目を付けた、母乳を欲しがる家庭に母乳を届ける活動をしているという廣田に福美はナニィ(乳母)として雇われることに。すると、かつての同級生の政治家一家から、ナニィの指名が入り……。
ひとはいつ「母」になるのか。母乳によって子を手放した女と母乳によって母となり得た女の視点から、母性を描いたサスペンスフルな長編。
おっぱいが出ないことで母親失格の烙印を押された女と、おっぱいが出ることで利用された女。
対象的な二人は、家父長制の権化のような徳田一家の家長と、その家長に長年「女」として仕えてきた妻により、対立させられてしまう。
その後時が経ち、当時のわだかまりが解けたように思えたころにも、社会的地位の確立した力を持った女に対し、女としてケア役を務めることで生計を立てるしかない女が苛立ちを覚える描写があり、いわゆるキラキラ系フェミニストと、市井のフェミニストとの間の意識の差が明示されているところが素直で好感を覚えた。
全体的にサスペンス仕立てでハラハラする展開なのに加え、登場する女性たちがだんだんと自らが苦境にいる要因ーー家父長制ーーに気づき始め、少しずつ連帯していく姿を見ることができ、何重にも満足できるような作品だ。
ラストはあまりに楽観的というかご都合主義的と感じたが、そもそも女性たちがつながる作品自体が少ないのだから、読後感スッキリ、ハッピーに終わる作品があっても良いのだと思う。
個人的には、子供ができ自分が育児をする段になったときにまた読んでみたら感想が変わるのだろうなと思った。
★★★☆☆
キム・ジナ『私は自分のパイを求めるだけであって人類を救いに来たわけじゃない』
「セックス・アンド・ザ・シティ」を地でいくバリキャリのつもりだったけれど、全く自由でなかったのではないか…。フェミニズムに目覚め、「女性の党」の党首となった韓国人女性の、家父長制からの脱洗脳の闘いの記録。
先日、Twitterにてソウル市長選の女性候補の演説をたまたま目にした。
ソウル市長補欠選挙で『女性一人でも住みやすいソウル』をスローガンにしてる女性議党のキムジナ候補の演説に字幕をつけました。
— sᴀᴍᴄʜᴏᴍ🔥五輪中止しろ (@samchom4) March 30, 2021
おじさん達が言う「女性が輝く社会✨女性活躍✨」とはレベチ。 pic.twitter.com/92bMP3GFdL
ショートカットで眼鏡をかけたいかにもフェミニストといった風貌の女性が、凛とした姿で静かに語りかける。
驚いたのは、市長選の演説にもかかわらず、言及する内容が女性に関するものばかりだということ。
このソウル市長補欠選挙では女性候補の躍進が目立ったが、その中でもキム・ジナ候補は15.1%の票を獲得し、12人中4位につけたという。
このような候補が誕生し、多くの票を獲得した背景には何があるのか。
さぞかし輝かしい経歴を持っているのだろうと予想しながら本書を開くと、そこには予想外にも失敗、反省が満ちていた。
『セックス・アンド・ザ・シティ』に憧れ、白人中産階級のリベラルファンタジーの中で「イケてる私」に酔っていたという筆者。
ずっと「家父長制依存症」をわずらっていたこと、そして今も中毒状態であることを正直に認め、常に自省を繰り返しながらも変化のため前に進む姿勢を赤裸々に記している。
この時点で、いわゆるリベフェミ的「キラキラフェミになるための指南書」ではないことに大いに安堵し、好感を持った。
以下、本書で特に印象に残った点を挙げていく。
骨の髄までしみ込んだ性的対象化や男性崇拝から抜け出さないかぎり、女性は自分の主人にはなれない。好きでやるダイエット? 好きでやる推し活? 自分が選んだこと、自分の欲望と思い込んでいるすべてを疑うことが第一段階だ。それなくしては家父長制からの独立に成功できない。たとえ経済力があっても。
昨今は、周囲のためでなく「自分のために」「主体的に」ダイエット、装飾をしようという風潮が強まっているように思うが、果たして自分は本当にそれをしたいのか?結局はメディアに踊らされているだけではないのか?というのは常に自問すべき問だ。
女性たちが自主的に体型管理をするようになって得するのは誰か、一度立ち止まって考えてみたい。
気づきを与えてくれたのは、十代、二十代の女性が主導する「脱コルセット」運動だ。(中略)メイクすることが逸脱だった私の世代とは違い、現代の十代、二十代には着飾らないことが抵抗であり、勇気のいることなのだ。(中略)世界が驚嘆する「ビューティー産業強国」の実態はまさに「着飾り抑圧強国」だった。(中略)着飾りに熱中し思いきり締め付けたコルセットは、自分だけの話では終わらなかった。見せびらかすことで周囲の同僚、後輩、街や地下鉄で顔を合わせる不特定多数の女性、オンラインの友人のコルセットまでぎゅうぎゅうに締め上げたのだ。互いが互いに鞭を入れ、若い世代の「着飾らない自由」を奪うところまで。
韓国のフェミニズム運動として真っ先に挙げられる「脱コルセット」運動は、社会から要求される装飾を拒否する社会運動であり、日本においてもここ数年でTwitterを中心としてじわじわと認知度を上げてきている。
つい先日、東京五輪にて女子アーチェリーで金メダルを獲得した選手がショートカットだったためアンチフェミニストからの誹謗中傷が殺到し、金メダルを返還しろという要求まで出てくる始末となった。
韓国では日本よりフェミニズムが浸透し、フェミニストを自認する若い女性の割合も高い。
フェミニスト運動が先鋭化している分、アンチフェミニストからのバックラッシュも非常に強いのだ。
この女子選手に対する反応を見ても、能力がある女性でさえ、性的対象・鑑賞の対象としてのふるまいを要求されることが見て取れ、女性蔑視の根深さがうかがえる。
全編を通じ、映画・小説などの作品を多数引用しながら、平易でありつつもまっすぐ胸に届く言葉で語りかけてくるような筆者の言葉選びが光る一冊だった。
ずっと正解の道を歩まなくてもいい、失敗しながら少しずつ学んでいくこと、そして、女性たちとの連帯の輪を広げていくことが重要であるというメッセージが胸にしみわたった。
コロナウイルスが落ち着いたら、ぜひ筆者が経営するウルフソーシャルクラブに足を運んでみたい。
https://www.instagram.com/woolfsocialclub/
数時間でさらっと読めるボリューム感も良かった。ほかの著書も気になるところ。
★★★★☆